年賀状に、自分の写真を入れるようになってから、五年あまりたつ。
ジャージを着ない。青唐辛子を食わない。金魚をすくわない。自動車を持たない。
自分がしないだろうと思うことはいくつかあるが、我と我が面を賀状に刷り込むことへの忌避感も、かつてはかなり高かった。
それが、椿の花が落ちるように取れて、以来、はんで押したように、毎年入れ続けている。
今年の年賀状は、もう、届いたろうか。
この一文を書いているのは、大晦日の夜。
明日は懐かしい人からの新年の挨拶にふれられるかと思うと、それだけで少し、今の私の胸もあたたかい。
岡本綺堂によれば、この年賀状の習慣が広まったのは、明治の中頃からという。
それまでも、遠方の親戚や知人に、恭賀新年の書状を送ることはあった。
だが、新年の挨拶は、足を運んでの回礼、年始回りがもっぱらで、東京府下を例に取れば、「よほど辺鄙な不便な所に住んでいない限り」、一葉のはがきをもってかえるは「あるまじき事」で、「総ての回礼者は下町から山の手、あるいは郡部にかけて、知人の戸別訪問をしなければ」ならなかったという。
新年の東京を見わたして、著るしく寂しいように感じられるのは、回礼者の減少である。もちろん今でも多少の回礼者を見ないことはないが、それは平日よりも幾分か人通りが多いぐらいの程度で、明治時代の十分の一、ないし二十分の一にも過ぎない。
江戸時代のことは、故老の話に聴くだけであるが、自分の眼で視(み)た明治の東京――その新年の賑(にぎわ)いを今から振返ってみると、文字通りに隔世の感がある。三ヶ日は勿論であるが、七草を過ぎ、十日を過ぎる頃までの東京は、回礼者の往来で実に賑やかなものであった。
岡本綺堂「年賀郵便」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/card49537.html
「回礼」「年始」をキーワードに青空文庫を検索してみると、かつての正月のにぎわいを思い起こさせる記述に、さまざま触れられる。
佐藤垢石「酒渇記」の「近年、お正月の門松の林のなかに羽織袴をつけた酔っ払いが、海豚(いるか)が岡へあがったような容(さま)でぶっ倒れている風景にあまり接しなくなったのは年始人お行儀のために、まことに結構な話である。」など、実に鮮やかじゃないか。
電車が開通した当時の元日、女子供は容易には乗れないくらいの込みようで、誰もが回礼に忙しく客入りが望めないと、あけている劇場もなかったらしい。
今では静かなイメージの1月1日は、酔っ払いの闊歩する、騒々しくて、人の息づかいに満ちた日だったようだ。
年賀状に写真を入れ始めた時期は、体調の悪化に重なり合っている。
弱ってかえって、人の触れあいに満ちた、回礼、お年始に通じる気分に、傾いたのだろう。
大きな治療が功を奏して、ここのところ鏡や写真の中の自分の表情が明るい。
年賀状作りは、いつも年が明けてからだ。
思いっきり笑っている写真を選んで、今年も賀状に入れよう。
二日には、回礼の真似事にも及ぶつもりだ。

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