今日は、先週の続き。
ずいぶん前に、うにさんが、ご自分のブログでお母様を亡くされた次の日の様子を書いていらしたと記憶する。自分以外の日常の風景は何も変わっていなかったという内容だったと思う。少年だった彼の悲しみの深さが、淡々として書かれた文面からうかがい知れた。
さて、私は、ケイさんという七十代半ばで自らこの世を去った婦人の話をしよう。
ケイさんというのは、母の知り合いで、母より十歳ほど年上の女性だった。一年前にご主人を亡くしたが、一緒に住んでいる長女夫婦と孫に囲まれて何不自由のない生活をしていて、いつも明るい人だ。彼女は、私を見かけると必ず声をかけて、時には、しつこいくらい私の近況を聞きたがった。それがわずらわしくあり、また彼女の暖かい人柄で解釈された自分の近況を逆に聞くのも、また楽しくもあった。
雲ひとつない夏の空、家の軒先に葵の花が咲き、人はそれを振り返る。そして蝉の鳴き声がする。そんなありきたりの八月のある朝、私は、ケイさんの家の近くの角で彼女を見た。確かに「見た」なのだ。決して「会った」ではない。彼女は、青い顔をして、体を斜めにして走っているようだった。私の目に馴染んでいた、青い大柄の花のブラウスの裾と水色のスカートの裾がひらひらとしていた。
私は、何かがおかしいと思いながらも、「ケイさん」と声をかけた。しかし彼女は、振り向きもせず、家のほうへかけて行った。単純な私は、聞こえなかったのかなとそのとき思った。
その日の夕方だったか・・母のところに訃報が入ったのは。
後日長女の方の話によると時間的に考えて、最後に彼女を見たのは、私らしい。でも本当に彼女だったのか。私の見間違いだったのかもしれない。また、人は亡くなるまえに、親しい人に姿を見せるというからそれだったのかもしれない。いやそれよりなぜ私は、彼女を追いかけて行き、話しかけなかったのだろう。簡単に聞こえないのだと思い込んだのだろう。
いまだに彼女の死の真実はわからないし、わたしの後悔も消えない。しかしそれらは、「日常」と綱引きをする。
彼女が亡くなった次の日の朝、私は、彼女を見た角を通った。何も変わっていないありきたりの八月の朝だった。
この話は今から十年以上も前の話(最近は古い話ばかりだ!!)だが、なぜそれを書いたかというと、芥川が亡くなった次の日もまたありきたりの朝だったのだろうと思う。
そこまで考えたとき、ふと吉田絃二郎の作品が思い浮かんだ。どんな題名だったか話の内容も思い出せなかったのだが、芥川の死への答えがそこにあると学生時代思った覚えがあった。人の死など、他人がわかるはずもないのに。答えがあると思ったのは、私の錯覚だったのろうと今では思う。そしてケイさんを最後に見たというのも錯覚だったのかもしれないと。
「沈黙の扉」 吉田 絃二郎
私の生活がどんなに苦しい時でも、私は「私が生まれなかつたら……」といふやうなことを考へたことは余りない。私自身の生活に対して、どれほど疑惑や失望を抱いてゐる際にでも、私は生まれたことを後悔するやうなことはない。少くとも生命を信愛しようとする心だけは失はずにゐる。
私が惑ふ時、私が悲しむ時、私は一層生命を劬はり、生命を信愛する心を覚える。もし私が自分で自分の生命を断つことがあるとしても、それは私が自分の生命を疎んじた結果ではなく、余りに生命に執着し、余りに生命を信愛せんとした心からであるにちがひない。私は私が自殺するほど真剣に私の生を想ひ、私の生命を突きつめて信愛することのできないことをもどかしく思ふ。生を信愛する心と、生命を断つ心とは、全然矛盾してゐるやうに見られるが、私にとつては矛盾してゐるとは考へられぬ。生を熱愛する私の感情と、生そのものゝ真実を攫まうとする私の理智とが絶えず相剋して、二つの間に溶けがたい隔りができる時、私は盲目的に生命を愛して行くか、或ひは自ら生命を断たなければならぬ境に入る。私は余りに愚かな私の理智を悲しむ。私の理智の眼が余りに力弱きものであることを悲しむ。しかも私は生命信愛の情に乏しいことを余り経験しない。殆んど生の信愛そのものが私の生命であり、生活であるやうにすら考へる。生きて行く現実から信愛の心を削つたならばその刹那に私の生活は滅びてしまふであらう。生命信愛――不断永劫の――はやがていのちの流れそのものではないか。私は何故に自己の生命を愛すべきかを知らない。しかし私は生命の信愛なしには一日も生きて居れない。智慧の実を食はなかつた時のアダムにも生命信愛の念はあつた。否な、かれは生命信愛そのものゝちからに動かされてのみ生存してゐたであらう。

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