先日、市の中心街にある広場を散歩した。市の整備計画が進められていて、大掛かりな工事中だった。今年は雪がないから工事も順調のようだ。砂埃の中、決められた道しか歩けないが、工事をしていない植え込みには、白梅がほころんでいた。何かの用事でこの広場を通りぬけることはあったが、こうやって梅をじっくり見たのは何年ぶりだろうか。足もともいいし、なにより暖かな日は、通りぬけだけでは勿体ない気がして、階段を下りた。冬の公園へと下りて来る人などほとんどいない。ちょっと一息の茶店も冬季は閉鎖である。アスレチックの網に常緑樹の葉っぱが引っかかっている。カラスの羽音がする。
ブランコが静止していた。私は、乗ってみた。風を切るとさすがにひやりとする。それにしてもずいぶんきれいなブランコだとこと。
その昔、この公園は、県内の花形で、市外の小学校の遠足の目的地だった。そのころぽつんぽつんと回転遊具、滑り台、ブランコ、ジャングルジム。単純な遊具しかなかった。それもブランコなどは、座るところが木製のがたがたのものだった。しかし奥行きのある敷地は、開放感があり、遠足には適地だった。ここは、幼稚園のころの、私の遊び場だ。
私は、幼稚園が終わると母の仕事場へ帰ってきていた。近所に住むやすこちゃんとよく遊んだ。彼女は三歳年上の背のすらりとした日本人形みたいな顔立ちで、大人になったらどんな別嬪さんになるのかと大人たちの噂の的だった。彼女には兄と姉がいたと思うが、年が離れていたからか、私とよく遊んだ。子供の足で十分ほどかかる公園へは、大通りを渡らなければならない。子供心に冒険という気持ちがあった。夕暮れまで、彼女とそこで遊んだ。いろいろな子供たちがいて仲良くなったものだ。
小学校になると学区というものがあるから彼女と遊べなくなった。自分の家の学校へ行く。それでも小学校低学年まで、学校の休日などは、バスに乗って母の仕事場へ遊びに来ていた。そしてやすこちゃんとも遊んだ。彼女は、私の家を知らなかった。ある日、母が何を思ったのか、彼女のお母さんに了承をもらって彼女を家に連れてきたことがある。私の家で遊んだ。その母の何気ない行動が大騒動になろうとは。
それから数週間だったか、数ヶ月だったか。冬の午後。私は、母の仕事場に遊びに行った。私は、やすこちゃんを呼びに行くと、彼女のお母さんの顔が真っ青になり、「いっしょではなかったの?」と叫んだ。
中々会えないので、私に会いたいから、私の家に行くと朝出て行った。お母さんは、彼女の言う「家」とは私の母の仕事場だと思ったので、自宅から数十メートル先にいると思い込んでいた。私が来ているものだと思っていたらしい。私は何も知らないから、ただ頷いた。それから、警察へ連絡したりして大騒ぎになった。彼女は、少しだけ知能の発達が遅れていたので、彼女のお母さんの心痛はいかばかりかと思う。
雪の中をいつも遊んでいた公園へ一人で行ってみた。誰もいない。深い長靴の跡がいくつも奥へと続いていた。それがやすこちゃんのものであるかどうかわからなかった。私は、「やすこちゃん」と精一杯尾を引いて声に出した覚えがある。声は、ジャングルジムやブランコを越えて、公園の深いところへ吸い込まれるだけだった。私は、急に怖くなった。涙と鼻水があふれてジャンパーの袖口で何度も拭いた。そして走って母の元へ帰った。
結局、彼女は、バスに乗ったもの、全く方向違いのバスに乗り、山道をとぼとぼと歩いていたところを保護されたという連絡が入ったのはその日の夕方だったか。
それを聞いたとき、私は胸が冷たくなったのを今でも覚えている。彼女がとぼとぼと雪道を歩いている姿を想像した。彼女はどんなに寒かっただろう。そしてその道が、どんなに長かったことだろう。
それからの私は、ほとんど母の仕事場へ行かなくなった。中学生のやすこちゃんを見かけたことがある。彼女のきれいな顔立ちの額ににきびがあった。それを気にしながら、人懐こい顔で、もうすぐ中学校へ行く、私に何かを言った。何を言ったのだったか・・・
様変わりしているが、あの時の自分をはっきりと思い出せる。雪の中、返事のない公園と、彼女に自宅を教えてしまったこと。教えなければ騒ぎになることもなかったという子供ながらの思い。
ブランコから下りて、私は、常緑樹の間から、冬の青空を見上げた。あの日は、こんな青空ではなかった。灰色の、押しつぶされそうな低い、低い空だった。
当時、公園の入口からやすこちゃんの家が石の上に上ると見えた。今は、ビルが建っている。白くまぶしいビルが建っている。
背伸びしなければみえなかったもの、背伸びしなくてもみえるもの。どう違うのか。背伸びしなければならなかったころは、梅の花など知りもしなかったということだけは確かである。
「尾崎放哉選句集」尾崎 放哉
公園冬の小径いづこへともなくある

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