先日、あるSNSで、友人が、「朔太郎の『青猫』」を引き合いにだしていた。その文字がとても懐かしかった。学生時代、よく手にした詩集の一つである。四畳半のアパートで、同郷の友人と口ずさんだ詩がその中にあった。何だったか、そうだ、「馬」だ、「馬」。「蒼ざめた馬」だ。「冬の曇天の・・」までは思い浮かんだ。さてその後は何だっただろう。
「青猫」 萩原 朔太郎
蒼ざめた馬
冬の曇天の 凍りついた天氣の下で
そんなに憂鬱な自然の中で
だまつて道ばたの草を食つてる
みじめな しよんぼりした 宿命の 因果の 蒼ざめた馬の影です
わたしは影の方へうごいて行き
馬の影はわたしを眺めてゐるやうす。
ああはやく動いてそこを去れ
わたしの生涯(らいふ)の映畫幕(すくりーん)から
すぐに すぐに外(ず)りさつてこんな幻像を消してしまへ
私の「意志」を信じたいのだ。馬よ!
因果の 宿命の 定法の みじめなる
絶望の凍りついた風景の乾板から
蒼ざめた影を逃走しろ。
「定本青猫」 萩原 朔太郎
蒼ざめた馬
冬の曇天の 凍りついた天氣の下で
そんなに憂鬱な自然の中で
だまつて道ばたの草を食つてる
みじめな しよんぼりした 宿命の 因果の蒼ざめた馬の影です。
わたしは影の方へうごいて行き
馬の影はわたしを眺めてゐるやうす。
ああはやく動いてそこを去れ
わたしの生涯(らいふ)の映畫幕(すくりーん)から
すぐに すぐに 外(ず)りさつてこんな幻像を消してしまへ。
私の「意志」を信じたいのだ。馬よ!
因果の 宿命の 定法の みじめなる
絶望の凍りついた風景の乾板から
蒼ざめた影を逃走しろ。
ところで、先日ある雑誌で面白い記事を読んだ。人の顔というものの不思議。天井をみる顔を手鏡に映すと、それは二十代の顔なのだそうで、反対にうつむいて映した顔が実年齢の顔なのだそうだ。二十代の顔。手鏡を持ってくる。こんな顔していたっけ・・・。まあ、この顔だったとして、私はこの顔で「蒼ざめた馬」は声に出していたわけだ。張りのある顔で読んだ、蒼ざめた馬とは何なのか。
みじめな しよんぼりした 宿命の 因果の蒼ざめた馬の影です。
そのことばだけに酔い、また酔うことで自分の中のみじめなしょんぼりした宿命が救われるような気がした。あれからウン十年。いまでも蒼ざめた馬は私の中にいる。いると信じていている。だから詩を書くことができるのだと。・・・という感傷から現実へ引き戻された。家人がパソコンに向かう私の横をひとこと言って通った。聞こえなかったので、
「なあに?」と聞き返すと、
「もうすぐは立春だね」と面倒くさそうに彼は答えた。
「そうだね」と私は答えた。
同じ会話をこの詩を口ずさんだ後に同郷の友達とした覚えがある。
窓の外。暖かな雨は、雪を消してしまう。

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