「青猫」 萩原 朔太郎
蒼ざめた馬
冬の曇天の 凍りついた天氣の下で
そんなに憂鬱な自然の中で
だまつて道ばたの草を食つてる
みじめな しよんぼりした 宿命の 因果の 蒼ざめた馬の影です
わたしは影の方へうごいて行き
馬の影はわたしを眺めてゐるやうす。
ああはやく動いてそこを去れ
わたしの生涯(らいふ)の映畫幕(すくりーん)から
すぐに すぐに外(ず)りさつてこんな幻像を消してしまへ
私の「意志」を信じたいのだ。馬よ!
因果の 宿命の 定法の みじめなる
絶望の凍りついた風景の乾板から
蒼ざめた影を逃走しろ。
「定本青猫」 萩原 朔太郎
蒼ざめた馬
冬の曇天の 凍りついた天氣の下で
そんなに憂鬱な自然の中で
だまつて道ばたの草を食つてる
みじめな しよんぼりした 宿命の 因果の蒼ざめた馬の影です。
わたしは影の方へうごいて行き
馬の影はわたしを眺めてゐるやうす。
ああはやく動いてそこを去れ
わたしの生涯(らいふ)の映畫幕(すくりーん)から
すぐに すぐに 外(ず)りさつてこんな幻像を消してしまへ。
私の「意志」を信じたいのだ。馬よ!
因果の 宿命の 定法の みじめなる
絶望の凍りついた風景の乾板から
蒼ざめた影を逃走しろ。
既に五十日にも餘りぬれば我が病院生活も半を過ぎたらむと思ふに、待つ人の遂に來らねば徒らにおもひを焦すに過ぎず、醫術の限を竭して後は病はいかに成り行くべきかと心もこゝろもとなくて、一月廿三日の夜いたく深くる程に筆とりて
我が病いえなばうれし癒えて去なばいづべの方にあが人を待たむ
あまたゝび空しく門は過ぎゝとふ人はかへしぬ我が思止まず
癒えぬべきたどきも知らず病みたれば悲しと來しに我は逢はぬに
こゝにして來なば來なむと待つ人のこゝにも來ねばいつとてか見む
霜柱庭に立てれば石踏みて來とさへいひてやりける人を
いたづらに思ひたのめて人待つと氷は閉ぢて解けにけらずや
さきはひを人は復た獲よさもあらばあれ我が泣く心拭ひあへなくに
おほよそは心は嘗ていはなくに思ひ堪へねばいひにけるかも
はかなさは燈明の油が煮える
人の首の中で一番人間の年齢を示しているのは項部である。所謂(いわゆる)首すじである。顔面では年齢をかくせるが首すじではごまかせない。あらゆる年齢に従って首すじは最も微妙に人間らしい味を見せる。赤坊のぐらぐらな項(うなじ)。小学校時代の初毛(うぶげ)の生えた曲線の多い首すじ。殊にえり際。大人と子供との中間の人の首すじを見るのは特別に面白い。大人になりかかって行って、此所にだけまだ子供が残っている青年などは殻から出たての蝉の様に新鮮である。水々しい若い女の首すじの美は特に私が説く迄もあるまい。色まちの女が抜衣紋(ぬきえもん)にするのは天然自然の智慧である。恋する女に向って最後の決心をする動機の一つが其の可憐な首すじを見た事にあるという話をよく聞く。自然は恋人と語る若い女性を多くうつ向かせる。其を見つめている男の眼は女の一番いじらしい首筋に注がれる。致命的なわけである。三十代四十代の男の頼もしい首すじ。又初老の人の首すじに寄る横の皺(しわ)。私は老人の首すじの皺を見る時ほど深い人情に動かされる事は無い。何という人間の弱さ、寂しさを語るものかと思う。電車の中に立っていて、眼の下にそういう一人の老人の首すじを見る時、老年のさびと荘厳さとを身にしみて感ずる。
夢
何者か我に命じぬ割(わ)り切れぬ數を無限に割りつゞけよと
無限なる循環小數いでてきぬ割れども盡きず恐しきまで
無限なる空間を墮(お)ちて行きにけり割り切れぬ數の呪を負ひて
我が聲に驚き覺めぬ冬の夜のネルの寢衣(ねまき)に汗のつめたさ
無限てふことの恐(かし)こさ夢さめてなほ暫(しま)らくを心慄へゐる
この夢は幼き時ゆいくたびかうなされし夢恐しき夢
今思(も)へば夢の中にてこの夢を馴染(なじみ)の夢と知れりし如し
ニイチェもかゝる夢見て思ひ得しかツァラツストラが永劫囘歸
私は歩きながら、自分が今している仕事のことや思想のことや生活上のいろんなことを、論理のじゅんを追って考えたりは、ほとんどしません。歩きながらの見聞やそれの引きおこす感覚を味わうのにいっぱいで、チャンとしたものを考えることは私に不可能なのです。まず、犬が歩いている状態に似ているのではないかと思う。ただ仕事や思想や生活のことが、ときどきチラリチラリと頭にきます。その断片や、またはその基調になっている色あいや調子のようなものが、フッと頭にきては、しばらくとどまっている。そのうちに、目が美しい木のシルエットをとらえたり、耳が思いがけない響きをとらえたりすると、その瞬間に、さきほどの思いは完全にどこかへ飛びさっています。