「御茶ノ水駅を降りてね。ニコライ堂からもうすこし行ったところにあるお店なの。日本酒の美味しい店でね。小さな店なんだけれどね。今度、お互い東京へ行ったときに飲みにいかない?」と、先月
「晩秋の花火」で書いた「彼女」こと、Y子さんが、私を誘ってくれたことがある。
「いいわね。行こう、行こう。約束ね」と子供のように浮きだって答えていたのは、いつのことだっただろう。彼女も私も主治医なるものをもっていなかったころだから、五年以上も前になる。当時、地元でわたしたちは飲みに行って楽しい話を咲かせていた。そのころお互いの病気で酒を口にできなくなるなど思ってもいなかった。まず私が生死をさまようことになり、そして見舞いに来てくれた彼女が不治の病となった。私は、生きているが、彼女は死んだ。
先週東京で、私は、この約束を果たそうと思った。私は、主治医に止められているから酒は飲めないが店へだけは行ってみたい。しかしひとりで行くのは、つらかったので、事情を説明して、都内に住むKさんを誘った。彼女は、即座に頷いてくれた。
私たちは、夕方、御茶ノ水駅に待ち合わせをして、駿河台下へ向かった。Y子さんに教えられた通りにニコライ堂の横を通る。店は、そこから少し下ったビルの二階だった。
狭い階段を上がる。格子戸を開けると女性店長が応対してくれた。カウンターの横を通り、畳に上がる。八畳ほどの部屋にテーブルが四つおいてあった。教えられた席に座り、メニューを開く。コースメニューを頼み、Kさんが日本酒を頼んだ。私はウーロン茶。そういえば太宰の話で亡き人の杯に酒を注ぐ話があったと私は思い出した。
「メリイクリスマス」という作品だったっけ。それを真似て、Y子さんの分もグラスを頼もうと思ったがやめた。Y子さんは、「そんな辛気臭いことやめてよ」と言いそうである。
日本酒のグラスを手に、Kさんが、「あなたも少し飲む?」と訊くから、そりゃあ、主治医がなんと言おうと友達が大切だし、断ったら彼女に失礼にあたるだろうと、ウーロン茶を横において、新しいグラスをもらって半分ほど分けた。
そういえばY子さんと飲みに行って、私が、Y子さんの杯に注ごうと徳利を持ったら、「すいませんねえ・・少しとは言わず、一杯に注いでくださいまし」と言うので、その言い方が面白くて大笑いしたことがあった。
そのことを思い出し、私は、グラスに入った透明な液体からKさんを見た。そして一口飲んだ。久しぶりの日本酒は口当たりがよく食も進む。注文したKさんは、あまり強くない人だからだから、私が飲んであげなければもったいない・・という親切心?で、彼女の分もすっかり空けてしまった。おまけに他のグループに運ばれてきたビールの琥珀色の誘惑に負けてそれも注文した。
Y子さんとKさんは、二人とも私の大切な友だちだがお互い面識はない。しかし向かい合っているのがY子さんだったとしても、楽しい酒が好き。Kさんと私は、「腹の皮がよじれそう」と言いながら笑い転げた。笑いのネタは、お互いの昔話から、前日の成田空港での私のドジ話まで。酒があったら時空さえ容易に越えてしまう。
笑いの余韻の中、Kさんは時計を見た。
「そろそろ帰る?」という彼女のことばに私は頷いた。会計を済まし、外に出た。
暖かい夜だった。ほんのりと赤い頬のKさんと平生顔の私は並んで歩いた。
「いい店を紹介していただいたわ。今度他のお友だちにも紹介するわ」とKさんが言った。
「そうね、貴女に、Y子さんを紹介しようと思っていたのだけれど、それもできなくなっちゃったね。あなたたち、同じ年で、二人とも、楽しいことが大好き人間だから、きっと気があったと思うわよ。」と言うと、Kさんもにっこりとした。「この店は、Y子さんが教えてくれたのだから」と私は後ろを振り返った。そのとき「今晩は、楽しかったわ!」とY子さんのいつもの明るい声が聞こえたような気がしたので「私もよ」と、そっと呟いてみた。
「樹木とその葉 16 酒の讃と苦笑」 若山 牧水
いざいざと友に盃すすめつつ泣かまほしかり醉はむぞ今夜

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