私の夏休みは、これからである。多忙極めた夏。気が付けば、夕方六時の空は、蒼色と金色の境目ができている。少し前まで水色一色だったはずなのに。
そんな私を労うように、昨日、黒葡萄を五房ほどをいただいた。瑞々しい光沢に、思わず撫ぜてみる。
黒葡萄で面白い話といえば・・・
ベチュラ公爵の別荘のテーブルの黒葡萄だ。とパソコンを開いた。
「黒ぶだう」 宮沢 賢治
はしご段をのぼりましたら一つの室があけはなしてありました。日が一ぱいに射(さ)して絨緞(じゅうたん)の花のもやうが燃えるやうに見えました。てかてかした円卓(まるテーブル)の上にまっ白な皿(さら)があってその上に立派な二房の黒ぶだうが置いてありました。冷たさうな影法師までちゃんと添へてあったのです。
この絵画的な一文が好きである。最後の一行「冷たさうな影法師までちゃんと添へてあったのです。」これがなかったら、この文章の魅力は半減だなと私は一人ごちる。ぶつぶついいながらも、現実の葡萄一粒を口の中で破裂させる。私はとても満足。
私は、口を動かすことをやめないで、真面目にこの作品を考えてみる。文章の技巧もさることながら、この赤狐と仔牛の会話。ずるいのは狐というステレオタイプとみるか。気の小ささを隠すための「えばりん坊」とみるか。退屈で外の世界をみてみたい、仔牛も、ちょっとドンくさいところが愛嬌。
さてさて・・この話、赤狐と仔牛はどうなったのだろう?
赤狐は、「よかった、自分は逃げられた。ドンくさい、あいつとはやってられない!逃げおくれたあいつが悪いんだ」と思った。
最初はそう思ったが、徐々に彼の胸の裡をついででるのは、先に一人(匹)で逃げてしまった。自己嫌悪という名の深い森。
いや、そうではない。また次の、言うことを聞いてくれる仲間を探す。一人で悪さをする度胸がないから。
仔牛は、黄色リボンをかけてもらって、きょとんとする。こんなものいらない、お母さんのところへ帰りたい。赤狐についてこなければよかった。後悔と言う名の渦がまっていた。
後悔を抱きながらも、仔牛は、この女の子の側で暮らしていくこととなる。退屈で、柵の外の世界を見たくて、出てみたのだが、結局は「柵」の中にもどってしまった。お母さんとも会えなくなって。
ところで、「女の子は、仔牛をドアから逃がしてやりました」と賢治は書かなかったのか。かわいい仔牛を逃がすほど少女の心は甘くはない。少女の無垢なエゴ。そこまで賢治は、この短い作品に書いているのだ。賢治の深さをこの作品から思うのは、考えすぎだろうか?
そこで、私は気づく。あ、一人で一房を食べてしまった・・・

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