
青空文庫仲間のはまなか氏の奥様がお撮りになったくちなしの花の写真(八重咲きのくちなし)を譲っていただいた。まるで庭先の一厘を手折ってもらったよう。
ということで、今日はこんな話はどうだろう。
六月の半ばの昼下がり。東京都内のある私鉄沿線の踏み切り、彼女は踏切りが上がるのをぼんやりと待っていた。電車の音が近くなる。彼女は早く通過してくれないかと暑さもあり、少しいらだってきた。その苛立ちをあざ笑うかのように、駅に近づくに連れて、電車はのろのろと走った。電車の先頭がホームに差し掛かったころ、彼女は、苛立ちをこめて視線を上げた。彼女の心臓はどきりとした。電車のドアに寄りかかった彼が目の前にいた。彼もまた彼女を見止めてはっとした。二人の視線は電車の速度で流れてぷつんと切れた。
踏み切りのバーはやっと上がった。大都会でのこの偶然は何だろう。彼なら、この偶然を考えるはずだ。ひょっとしたら彼はこの駅で降りてくれるのではないのだろうかと、踏み切りを歩きながら彼女は、止まっている電車の後部車両のテールランプをみつめた。改札に回ってみようかという気持ちが動いた。もし彼がいたらどうする?また、今、全速力で走ったら、自分はこの電車に乗れるかもしれない。もし後者なら考えている余裕などないはずなのに、足が動かなかった。彼女のなかに期待とため息が交互した。知り合って二年、傷つけあうだけだとお互い悟って別れたのは数ヶ月前、また二人でやり直すか。彼女の心は、それを即座に否定した。
強い意志とわずかな心の揺れ、彼女は踏切をゆっくり渡った。踏み切りを渡り終えた彼女は、右へ曲がって改札へ向かうこともなく、後ろを振り返ることもなくまっすぐと進んだ。背筋を伸ばして歩く彼女の鼻をあまい香りがくすぐった。それは、何の花の香りなのか彼女には見ずともすぐにわかった。
お互い学生同士、お金はないが、時間に縛られることもなくウインドウショッピングを楽しんだ。二人の好きなコースの一つは、原宿から、
代々木の体育館を通って渋谷へ。
その日、二人はいつものコースを歩いた。昼間からでかけて、とうとうこんな時間になったと彼は腕時計をみた。まだ闇になりきれない中途半端な空、体育館の街灯でコンクリートの白さが鈍く光っていた。その街灯を外れた植え込みから甘い香りがした。彼は立ち止まった、彼女も立ち止まった。
彼は、
「ほら・・」と植え込みを指差した。そのことばに、素直な彼女の白いフレアースカートが向きを変えた。そのスカートよりも数段鮮やかな白が宵に浮き出ていた。
彼は花に顔を近づけて、その大きな瞳を少し上げ彼女に教えた。
「ほら、くちなしの花だよ」と。
宵のくちなしの花を嗅いで君に見せる
尾崎放哉選句集 尾崎 放哉 より
踏み切りですれ違って以来、彼と彼女は二度と会うことがなかった。あれから三十年、何度もなんどもくちなしをみた。しかしあのときの、代々木のくちなしの花より美しいものをみたことがない。と彼女は言って、雨の落ちる庭先に目を移した。そして私に静かに付け加えた。
「私も白髪がでてきましたから、きっと彼も白髪があるはずです。でもね、今でもくちなしをみると彼は昔のままなんですね・・・私も」

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