本日公開は、
ざしき童子のはなし 宮沢 賢治 賢治の世界のざしき童子を思う存分楽しんで欲しい。
ぼくらの方の、ざしき童子(ぼっこ)のはなしです。
これは、むかし、人が、障子一枚の向こうで生まれ死んでいった時代の話であろう。障子一枚の向こうにあったのは、陣痛の間隔が段々狭くなっていく母とその後の弟や妹の産声、また、黄泉へ旅立つ祖母と祖母の脣を濡らしてやる者たちのすすり泣き。
一つ屋根の下にあった生と死の同居。そしてその生死を超えた者も障子一枚の向こうにいた。それらが当たり前だったころの話。座敷に集まった子供の一人くらい増えていても誰もなんとも思わなかった。変だなと履物を数えにいった者の一人はあっただろうが、履物数と子供数が合わなくても「ああ・・ざしき童子か」と納得した。
なぜ納得するのか。わからない。人間の意識とは、妙なもので、物理的には解釈できないことがある。人の意識と意識の間に隙間があるのかどうかわからないのだが、もしあるとするならば、その隙間に「ざしき童子」が棲んでいるのだと私は思う。
・・・と書く私は、まだ「ざしき童子」に会ったことがない。だから賢治の村の人たちには、「え?そこらにいるのに。。あんた、会ったことがないの?」って言われそうだな・・

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