声を見る
まるで見当違いの場合もないわけではないが、その人の風体を見ることのできぬ私どもは、その音声によってその人の職業を判断して滅多に誤ることがない。
弁護士の声、お医者さんの声、坊さんの声、学校の先生の声、各々その生活の色が声音の中ににじみ出てくる。偉い人の声と普通の人の声とは響きが違う。やはり大将とか大臣とかいうような人の声は、どこか重味がある。
年齢もだが、その人の性格なども大抵声と一致しているもので、穏やかな人は穏やかな声を出す。ははあ、この人は神経衰弱に罹っているなとか、この人は頭脳のいい人だなというようなことも直ぐわかる。概して頭を使う人の声は濁るようである。それは心がらだとか不純だとかいうのでなく、つまり疲れの現れとでもいうべきもので、思索的な学者の講演に判りよいのが少く、何か言語不明瞭なのが多いのがこの為ではないかと思う。
同じ人でも、何か心配事のある時、何か心境に変化のある時には、声が曇ってくるから表面いかに快活に話していても直ぐにそれとわかる。初めてのお客であっても、一言か二言きけば、この人は何の用事で来たか、いい話を持って来たのかそれとも悪い話を持って来たか、何か苦いことをいいに来たかというようなことはよくわかるものである。また肥った人か痩せた人かの判断も、その声によって容易である。例えば高く優しくとも肥った人の声は、やはりどこかに力があるものだ。
声ばかりではない、歩く足音でそれが誰であるかということがよくわかる。家の者が外出から帰って来たのか、客であるか、弟子であるか、弟子の誰であるか、大抵その足音でわかる。道を歩いていても、それが男であるか女であるかは勿論、その女は美人であるかどうかもやはり足音でわかる。殊に神楽坂などという粋な筋を通っていると、その下駄の音であれは半玉だな、ということまでわかる。それは不思議なくらいよくわかる。ところが、この間道を通る人の靴音をきいて、傍の家人に今のはお巡りさんかと尋ねてみたら、「いいえ女学校生です」とのことであった。この頃の女学生は活発な歩き方をするので、私の耳も判断に迷うことがある。
「まあ、どっちでも、同じ様なものですが、しかし、女の嘘は凄(すご)いものです。私はことしの正月、いやもう、身の毛もよだつような思いをしました。それ以来、私は、てんで女というものを信用しなくなりました。・・・」。
「そのお嫁さんはあなたに惚(ほ)れてやしませんか?」
名誉職は笑わずに首をかしげた。それから、まじめにこう答えた。
「そんな事はありません。」とはっきり否定し、そうして、いよいよまじめに(私は過去の十五年間の東京生活で、こんな正直な響きを持った言葉を聞いた事がなかった)小さい溜息(ためいき)さえもらして、「しかし、うちの女房とあの嫁とは、仲が悪かったです。」
私は微笑した。
これは昔ばなしである。――
これは古い物語である。――
若い妻は夕方になると、身じまいをし、薄つすらと化粧までして、膳部を二つ、縁先ちかくならべて据えた。けれど、箸を手にとるでもなく、そのまま縁へにじり出て、ぼんやり庭先などを眺めてゐる。その物案じ顔が、男の心には人待ち顔に見えるのである。
新年
新年來り
門松は白く光れり。
道路みな霜に凍りて
冬の凜烈たる寒氣の中
地球はその週暦を新たにするか。
われは尚悔いて恨みず
百度(たび)もまた昨日の彈劾を新たにせむ。
いかなれば虚無の時空に
新しき辨證の非有を知らんや。
わが感情は飢ゑて叫び
わが生活は荒寥たる山野に住めり。
いかんぞ暦數の囘歸を知らむ
見よ! 人生は過失なり。
今日の思惟するものを斷絶して
百度(たび)もなほ昨日の悔恨を新たにせん。