久しぶりにこちらに書いてみます。以前のように一日おきというは、自分のブログもあるので、ちょっと無理だから、休みと宣言した土日のどちらかをここで書いてみようと思いつきました。(単なる思い付きかも・・)
昨日の青空文庫の公開は
「青鬼の褌を洗う女」
久しぶりにこの長い作品を読んだ。学生時代読んだときは、母娘の葛藤として、それをわが身に置き換えて読み捕らえたものだったが、昨日読んだら、全く違うものに思えた。。
私は野たれ死をするだろうと考える。まぬかれがたい宿命のように考える。私は戦災のあとの国民学校の避難所風景を考え、あんな風な汚ならしい赤鬼青鬼のゴチャゴチャしたなかで野たれ死ぬなら、あれが死に場所というのなら、私はあそこでいつか野たれ死をしてもいい。私がムシロにくるまって死にかけているとき青鬼赤鬼が夜這いにきて鬼にだかれて死ぬかも知れない
彼の魂は孤独だから、彼の魂は冷酷なのだ。彼はもし私よりも可愛いい愛人ができれば、私を冷めたく忘れるだろう。そういう魂は、しかし、人を冷めたく見放す先に自分が見放されているもので、彼は地獄の罰を受けている、ただ彼は地獄を憎まず、地獄を愛しているから、彼は私の幸福のために、私を人と結婚させ、自分が孤独に立去ることをそれもよかろう元々人間はそんなものだというぐらいに考えられる鬼であった。
しかし別にも一つの理由があるはずであった。彼ほど孤独で冷めたく我人(われひと)ともに突放している人間でも、私に逃げられることが不安なのだ。そして私が他日私の意志で逃げることを怖れるあまり、それぐらいなら自分の意志で私を逃がした方が満足していられると考える。鬼は自分勝手、わがまま千万、途方もない甘ちゃんだった。そしてそんなことができるのも、彼は私を、現実をほんとに愛しているのじゃなくて、彼の観念の生活の中の私は、ていのよいオモチャの一つであるにすぎないせいでもあった。
私は谷川で青鬼の虎の皮のフンドシを洗っている。私はフンドシを干すのを忘れて、谷川のふちで眠ってしまう。青鬼が私をゆさぶる。私は目をさましてニッコリする。カッコウだのホトトギスだの山鳩がないている。私はそんなものよりも青鬼の調子外れの胴間声が好きだ。私はニッコリして彼に腕をさしだすだろう。すべてが、なんて退屈だろう。しかし、なぜ、こんなに、なつかしいのだろう。
この作品では、「赤鬼青鬼」-「鬼」-「青鬼」と三種類の鬼という言葉がでてくる。題名はなぜ青鬼なのだろう。ただの鬼ではだめなのだろうか?なぜ赤鬼ではないのだろうか?
私は、「泣いた赤鬼」浜田広介作の話を思い出した。
ある山に赤鬼と青鬼が仲良くくらしている。赤鬼は、人間たちと友たちになりたくて、なりたくて、しょうがない。しかし鬼は悪いものと思われているので、友達になれない。悲しむ赤鬼をみて友達の青鬼が提案する。
「町で大暴れしてくるから、僕をやっつけたら、きっとみんなは君を信用してくれる」と。
赤鬼は、青鬼の提案のまま、町で大暴れする
悪い青鬼をやっつける。すると人間たちは、赤鬼がとてもいい鬼なんだと信用して、彼のところへ遊びにくるようになった。満足そうな友達の姿をみて、青鬼は気づいた、仕掛けを人間にしられては赤鬼の信用が失墜する。ならば自分がここにいてはいけないのだと、人間となかよくしてくれと書置きを遺して旅にでることにした。
なぜ青鬼は、無謀な結末がわかっているような提案をしたのだろう。
安吾の文章をそのまま青鬼にあてはまてみたらどうだろう。
青鬼の魂は孤独だから、青鬼の魂は冷酷なのだ。青鬼はもし赤鬼よりもいい友人ができれば、赤鬼を冷めたく忘れるだろう。そういう魂は、しかし、赤鬼を冷めたく見放す先に自分が見放されているもので、青鬼は地獄の罰を受けている、ただ彼は地獄を憎まず、地獄を愛しているから、青鬼は赤鬼の幸福のために自分が孤独に立去ることをそれもよかろう元々鬼とはそんなものだというぐらいに考えられる鬼であった。
安吾の文章にあてまはめると、「私」が赤鬼ということかとなる。なぜ「私」が赤鬼なのか。「私」が自分と等価の孤独を求めている以上、片方が鬼なら自分も鬼でなければならない。「私」が久須美の孤独を等価と感じたからこそ、すんなりと彼の首に手を回すことができたのであろう。
では久須美が立ち去ったとしたら、「私」は泣くのだろうか?いや泣く事はないだろうと思う。なぜならば、「私」は知っているのだから。
「彼は私を、現実をほんとに愛しているのじゃなくて、彼の観念の生活の中の私は、ていのよいオモチャの一つであるにすぎないせいでもあった。」
読み違い、深読みかとも思うが、一つの作品での違った見方ができて、昨日はちょっと嬉しかった。

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