十二月三十一日、午前九時――全く、うまく行ったものだ――万寿丸は横浜港内深くはいって、ほとんど神奈川沖近くへ投錨した。葉山嘉樹の「海に生くる人々」は、この日、航海を終えた船員たちが警察に拘束されるところで終わる。
それは十二月三十一日であった。大晦日であった。それは、いかなる労働も休んでいるはずであった。けれども、その当時は戦争が、ヨーロッパにおいて行なわれていた。そのために、狂的な経済的好況が、日本のブルジョア階級を、踊り菌でも、食った人のように、夢中に止め度もなく踊り狂わせた。ともある。
百年の戦争の継続があっても、その結末は、結局数頁の講和条約の文章にほかならない。賢明なるものが、その文章を、戦いの前に書くことができたならば、人類は百年の血潮の中をのたうちまわらなくてすむのである。
「話せばわかる」といった犬養氏に、「問答無用!」と拳銃の引き金を引いた考え方が、真直に真珠湾攻撃に通じている。「話す」ということを発見した人類のこころの中には、苦痛をのり越えてきたものの切実な祈りがひそんでいる。直接に血を流さないために、人類はここまで歩みきたったのである。
吾邦固より無類の神國で、上代の民純朴だつたは知れ切つた事ながら、時世と範圍相應に今日から見ると、奇怪な習慣も隨分行はれたは大化の初年迄人死する時、人を絞して殉ぜしめ、信濃國で夫死すれば妻を殉ぜしめたなどで訣る。されば地方によつて老人を棄て風も有つたのだらう。とある。
厚生労働省は28日、75歳以上のお年寄りの外来診療について、医師の治療を1カ月に何回受けても医療機関に支払われる診療報酬を一定にする「定額制」を導入する方針を固めた。寝たきりの在宅患者への往診など、高齢者向け医療の一部ではすでに定額制が導入されている。厚労省はこれを外来医療へと拡大して医療費の抑制を図る考えだ。高齢者に対して、必要度の高くない医療が過剰に行われているとされる現状を改善する狙いだが、患者の受診機会の制限につながる可能性や、医療機関がコストを下げようと必要な医療まで行わなくなる危険もあり、今後、適用する疾病の範囲や条件を慎重に検討する。というものだった。
まことの文学は、常に、眼が未来へ向けられ、むしろ、未来に対してのみ、その眼が定着せらるべきものだ。未来に向けて定着せられた眼が過去にレンズを合せた時に、始めて過去が文学的に再生し得るのであつて、単なる過去の複写の如きは作文以外の意味はない。枯淡の風格、秋声の「縮図」の如き、作文技法の典型以外に意味はない。
文学は未来の為にのみ、あるものだ。より良く生きることの為にのみ、あるものだ。人の考えうるあらゆる可能性が真実として作品中に行為せられるところに、文学の正しい意味がある。そこに人間の正当な発展が企てられ、実存している。その眼が未来に定着しない文学は作文にすぎないことを知るべきである。
愚にもつかない事柄だが、思いようではしみじみと身にしみる、それらのことが、私の憂欝の始まりだった。この種の憂欝に沈みこみ、重い頭を強いてもたげて、おずおずと眺めると、人の世が憐れに見え、人間の姿が憐れに見える。なにか重い荷を背負い、なにか重い鏈(くさり)を引きずって、とぼとぼと歩いている、そうした感じが、我にも他人にも、誰にも、相通ずる。これを称して、ヒューメンな感情だなどと文学者は言うが、一介のサラリーマンにとっては、ヒューメンな感情ほど惨めなものはない。
チェホフやウェルサーエフや、現代ではカロッサ、これらの作家たちが医師であって同時に作家であったことは、彼等にとって比類のない仕合わせ、人類にとっては一つの慰安となっている。
彼等はいずれもそれぞれの時代、それぞれの形で、人間は不合理と紛乱と絶望の頁を経験したが、それでも猶、窮極に人間は絶望しきらず、非合理になりきらず、人生は謙遜に愛すべきものであることを語っている作家たちだ。
彼等はそれぞれの制約に対しては、おとなしく且つつましいが、堅牢な理性の確信に立ち、愛という言葉は極度に慎しみつつ、その宣伝にはいそしんだ。この力の泉はどこにあるのだろう。
自然と人間とのいきさつをときあかす科学が彼等の魂の砦であった。狂乱やこじつけを自然はいつもうけつけない。黙ってしっかりそれをくいつくし、正しい秩序にかえして再現する。その偉力の美しさ、無限の鼓舞がそこにある。世代から世代へ渡る橋桁は人間の心のその光で目釘をうたれ鏤められていることを彼等は遂に見失わなかったのだ。
「きょうは何日だか御存知ですか?」
「十二月二十五日でしょう。」
「ええ、十二月二十五日です。十二月二十五日は何の日ですか? お嬢さん、あなたは御存知ですか?」
「ええ、それは知っているわ。」
「ではきょうは何の日ですか? 御存知ならば云って御覧なさい。」
「きょうはあたしのお誕生日。」
「きょうはあなたのお誕生日! お嬢さん。あなたは好い日にお生まれなさいましたね。きょうはこの上もないお誕生日です。世界中のお祝いするお誕生日です。あなたは今に、――あなたの大人になった時にはですね、あなたはきっと…… あなたはきっと賢い奥さんに――優しいお母さんにおなりなさるでしょう。ではお嬢さん、さようなら。わたしの降りる所へ来ましたから。では――」
数時間の後、保吉はやはり尾張町のあるバラックのカフェの隅にこの小事件を思い出した。あの肥った宣教師はもう電燈もともり出した今頃、何をしていることであろう? クリストと誕生日を共にした少女は夕飯の膳についた父や母にけさの出来事を話しているかも知れない。保吉もまた二十年前には娑婆苦を知らぬ少女のように、あるいは罪のない問答の前に娑婆苦を忘却した宣教師のように小さい幸福を所有していた。その小さな幸福の思い出が、以下、つづられている。読む人の胸に、自分の子どものころの思いでを甦らせるような話だ。芥川龍之介の「少年」。
「お皿を、三人、べつべつにしてくれ。」
「へえ。もうひとかたは? あとで?」
「三人いるじゃないか。」私は笑わずに言った。
「へ?」
「このひとと、僕とのあいだに、もうひとり、心配そうな顔をしたべっぴんさんが、いるじゃねえか。」こんどは私も少し笑って言った。
「コップで三つ。」と私は言った。
小串の皿が三枚、私たちの前に並べられた。私たちは、まんなかの皿はそのままにして、両端の皿にそれぞれ箸(はし)をつけた。やがてなみなみと酒が充たされたコップも三つ、並べられた。
私は端のコップをとって、ぐいと飲み、
「すけてやろうね。」
と、シズエ子ちゃんにだけ聞えるくらいの小さい声で言って、母のコップをとって、ぐいと飲み、ふところから先刻買った南京豆の袋を三つ取り出し、
「今夜は、僕はこれから少し飲むからね、豆でもかじりながら附き合ってくれ。」と、やはり小声で言った。
紳士は、ふいと私の視線をたどって、そうして、私と同様にしばらく屋台の外の人の流れを眺(なが)め、だしぬけに大声で、
「ハロー、メリイ、クリスマアス。」
と叫んだ。アメリカの兵士が歩いているのだ。
何というわけもなく、私は紳士のその諧(かい)ぎゃくにだけは噴(ふ)き出した。
呼びかけられた兵士は、とんでもないというような顔をして首を振り、大股(おおまた)で歩み去る。
「この、うなぎも食べちゃおうか。」
私はまんなかに取り残されてあるうなぎの皿に箸をつける。
「ええ。」
「半分ずつ。」
東京は相変らず。以前と少しも変らない。
年中借金取が出はいりした。節季はむろんまるで毎日のことで、醤油屋(しょうゆや)、油屋、八百屋(やおや)、鰯屋(いわしや)、乾物屋(かんぶつや)、炭屋、米屋、家主その他、いずれも厳しい催促(さいそく)だった。路地の入り口で牛蒡(ごぼう)、蓮根(れんこん)、芋(いも)、三ツ葉、蒟蒻(こんにゃく)、紅生姜(べにしょうが)、鯣(するめ)、鰯など一銭天婦羅(てんぷら)を揚(あ)げて商っている種吉(たねきち)は借金取の姿が見えると、下向いてにわかに饂飩粉(うどんこ)をこねる真似(まね)した。近所の小供たちも、「おっさん、はよ牛蒡(ごんぼ)揚げてんかいナ」と待てしばしがなく、「よっしゃ、今揚げたアるぜ」というものの擂鉢(すりばち)の底をごしごしやるだけで、水洟(みずばな)の落ちたのも気付かなかった。
種吉では話にならぬから素通りして路地の奥(おく)へ行き種吉の女房(にょうぼう)に掛(か)け合うと、女房のお辰(たつ)は種吉とは大分違(ちが)って、借金取の動作に注意の目をくばった。催促の身振(みぶ)りが余って腰(こし)掛けている板の間をちょっとでもたたくと、お辰はすかさず、「人さまの家の板の間たたいて、あんた、それでよろしおまんのんか」と血相かえるのだった。「そこは家の神様が宿ったはるとこだっせ」
私は日を浴びていても、否、日を浴びるときはことに、太陽を憎むことばかり考えていた。結局は私を生かさないであろう太陽。しかもうっとりとした生の幻影で私を瞞(だま)そうとする太陽。おお、私の太陽。私はだらしのない愛情のように太陽が癪(しゃく)に触った
私が最後に都会にいた頃――それは冬至に間もない頃であったが――私は毎日自分の窓の風景から消えてゆく日影に限りない愛惜を持っていた。私は墨汁のようにこみあげて来る悔恨といらだたしさの感情で、風景を埋めてゆく影を眺めていた。そして落日を見ようとする切なさに駆(か)られながら、見透しのつかない街を慌(あわ)てふためいてうろうろしたのである。今の私にはもうそんな愛惜はなかった。私は日の当った風景の象徴する幸福な感情を否定するのではない。その幸福は今や私を傷つける。私はそれを憎むのである。