三十日午前五時谷中天王寺町四五淨光院殿内墓標裏に、年齡五十歳位頭髮五分刈の女の屍體發見さる檢視の結果自殺と判明す身元不詳。
頭髮五分刈といふ活字が鋭く私の胸を刺した。暇ごひに來た時のお房さんの姿が眼に泛んで來て、消さうとしても消えない。一生放れないものゝやうに纒はりついてくる。
だが、日が經つにつれて、新聞の雜報欄等を煩はさない自殺者が日々に幾らあるか知れないのに、たまたま新聞に載つたそれが、必ずしも彼女だと斷定することはできないやうに思はれて來た。
そして今では、坊主頭のお房さんの姿も、生活に押し流されて行つた自殺者の大群と一緒にしか考へられなくなつた。
鏡は、上を向いたまゝ茶棚の隅に、白い埃に掩はれてゐる。
私が死んだなら、小さい孫どもはさぞ歎くだらうなどとおもふのは、ほしいままな自己的な想像に過ぎない。孫どもはかういふ老翁の死などには悲歎することなく、蜜柑(みかん)一つ奪はれたよりも感じないのである。そこですくすくと育つて行く。この老翁には毫末(がうまつ)の心配も要(い)らぬのである。
別るるや夢一とすぢの天の河
三島由紀夫をなぜ芥川賞にしないのか、と云って、私のところへ抗議をよこした人がある。事情を知らない人々には、まことに尤もな抗議であるから、この機会に釈明に及んでおくが、三島君は芥川賞復活当時、すでに多くの職業雑誌に作品をのせ、立派に一人前に通用していたから、すでに既成作家と認め、芥川賞をやるに及ばぬ、という意見に全員一致していたからである。
私が意外の感にうたれたのは、戦後派賞という戦後派の人を選者にした賞で、島尾君が賞をうけたのは、それはそれでよろしいのだが、次席として、三島君の名を明記するに至っては、私は呆れはてた。
私はグウタラで、ヒネクレ根性で、交際ギライの偏執狂であるが、しかし、私は、自分のつくすべき役割への責任を知り、人のために、自分でつくせる奉仕はつ くしたいという心の正しい位置をつきとめている。そして交際ギライという殻の中から出はしないが、殻の中に隠れたままなしうる最善をなしたいという善意と 努力は忘れないつもりだ。
石太郎(いしたろう)が屁(へ)の名人であるのは、浄光院(じょうこういん)の是信(ぜしん)さんに教えてもらうからだと、みんながいっていた。春吉(はるきち)君は、そうかもしれないと思った。石太郎の家は、浄光院のすぐ西にあったからである。
なにしろ是信さんは、おしもおされもせぬ屁(へ)こきである。いろいろな話が、是信さんの屁について、おとなたちや子どもたちのあいだに伝えられている。是信さんは、屁で引導(いんどう)をわたすという。まさかそんなことはあるまいが、すいこ[#「すいこ」に傍点]屁(音なしの屁)ぐらいは、お経(きょう)の最中にするかもしれない。
だが、それは強くない、心のどこかで、こういう種類のことが、人の生きていくためには、肯定(こうてい)されるのだと、春吉君には思えるのであった。
もはや一切の矛盾や不合理も気にならん。俳句の形式も気にならん。好き勝手放題、ノンノンズイズイと生きることだ。
「価値測定器と云うのは何です。」
「文字通り、価値を測定する器械です。もっとも主として、小説とか絵とかの価値を、測定するのに、使用されるようですが。」
「どんな価値を。」
「主として、芸術的な価値をです。無論まだその他の価値も、測定出来ますがね。ゾイリアでは、それを祖先の名誉のために MENSURA ZOILI と名をつけたそうです。」
「外国から輸入される書物や絵を、一々これにかけて見て、無価値な物は、絶対に輸入を禁止するためです。この頃では、日本、英吉利(イギリス)、独逸(ドイツ)、墺太利(オオストリイ)、仏蘭西(フランス)、露西亜(ロシア)、伊太利(イタリイ)、西班牙(スペイン)、亜米利加(アメリカ)、瑞典(スウエエデン)、諾威(ノオルウエエ)などから来る作品が、皆、一度はかけられるそうですが、どうも日本の物は、あまり成績がよくないようですよ。我々のひいき眼では、日本には相当な作家や画家がいそうに見えますがな。」
「あなたの『煙管(きせる)』もありますぜ。」私は京都に住んでいるのだが、このあいだ、東寺の弘法さん(毎月開かれる縁日)に行ったら、蓄音機や古着などに混ざって、この Mensura Zoili らしきものが並んでいたので、買ってきて、このブログにインストールしてみた。現在、設定を調整中。不快というよりまさに莫迦莫迦しいコメントやトラックバックがだいぶ減った気がするが、完全ではない。まだ手作業でコツコツ消す必要があるようだ。
「何と書いてあります。」
「やっぱり似たようなものですな。常識以外に何もないそうですよ。」
「へええ。」
「またこうも書いてあります。――この作者早くも濫作(らんさく)をなすか。……」
「おやおや。」
僕は、不快なのを通り越して、少し莫迦(ばか)莫迦しくなった。
(…)円い玉子はこのように切るべきだと、地球が円いという事実と同じくらい明白である。しかし、この明白さに新吉は頼っておられなかったのだ。よしんば、その公式で円い玉子が四角に割り切れても、切れ端が残るではないかと考えるのだ。