思いがけない時に思いがけない所で聞く音。
あまりに唐突なだけに、数秒後にはもう自分の耳が信じられなくなることすらある。
ある秋の月夜に、ピアノ「を触つた音」を聞いた作者の話。
雨は幸ひにも上つてゐた。おまけに月も風立つた空に時々光を洩らしてゐた。わたしは汽車に乗り遅れぬ為に(煙草の吸はれぬ省線電車は勿論わたしには禁もつだつた。)出来るだけ足を早めて行つた。
すると突然聞えたのは誰かのピアノを打つた音だつた。いや、「打つた」と言ふよりも寧ろ触つた音だつた。わたしは思はず足をゆるめ、荒涼としたあたりを眺めまはした。ピアノは丁度月の光に細長い鍵盤を仄めかせてゐた、あの藜の中にあるピアノは。――しかし人かげはどこにもなかつた。
それはたつた一音(おん)だつた。が、ピアノには違ひなかつた。わたしは多少無気味になり、もう一度足を早めようとした。その時わたしの後ろにしたピアノは確かに又かすかに音を出した。わたしは勿論振りかへらずにさつさと足を早めつゞけた、湿気を孕んだ一陣の風のわたしを送るのを感じながら。……
いつの晩だっただろう。夜道を歩いていた時に、ねぐらにいるはずの烏の声が一つ響いてそれっきり黙っていたのを思い出す。
その時の、緊張を秘めた静寂。芥川龍之介「
ピアノ」を読み終えた筆者の周りを今も包んでいる。朝の空気の中で。

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