風邪をひいた時に、布団の中で何かを見てしまうことはないだろうか。熱が作る幻影に魅せられてしまう事はないだろうか。
筆者も最近、一つの旅の中で二回風邪をひいてしまった。借りた布団の中で感じる地球は何度も変な角度で回転していた。
何年前か解らない今日、風邪を引いたある作家が詩の形で幻影を捉えた。
風邪
十月八日の夜の十二時すぎ、
三人の男女(なんによ)の客を帰したあと、
語り疲れて床に入つたが、寝つかれぬ。
いつも点けて置く瓦斯の火を起きて消せば、
部屋中の魔性の「闇」ははたと音(ね)をひそめ、
みるみる大きく成つて行く黒猫の柔かな手触りで
わたしの友染の掻巻の上を軽く圧へ、
また、涙に濡れた大きな黒目がちの
人を引く目の優形(やさがた)の二十三四の女と変つて
片隅に白い右の手を頤(あご)にしたまま寄りかかり、
天井の同じ方ばかり待ち人のあるよな気分で見上げる。
(それはわたしの影であろ。)
部屋中の静かなことは石炭の庫(くら)の如く、
何処からとなく障子の破れを通す霜夜の風は
長い吹矢の管(くだ)をわたしの髪にそおつとさし向ける。
わたしはますます寝つかれぬ。
閉ぢても、閉ぢても目は円く開き、
横向に一人じつとして身ゆるぎもせぬ体は
慄毛(おぞけ)だつ寒さと汗に蒸される熱さとの中で烹られる。
わたしは風邪を引いたらしい。
それとも何かに生血を吸はして寝てるのか。
時計は二時を打つ。
與謝野晶子「
晶子詩篇全集拾遺」
「みるみる大きく成つて行く黒猫の柔かな手触りで」、今筆者の背中を押さえるのは…

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