徳田秋声の
「和解」 という作品がある。誰と誰が和解する話であるか、
あるとき同郷のTが病身で、秋声とおもわれる“私”のところへ転がり込んでくる。このTというのは、ある、天才作家の弟だった。
謂はばそれは優れた天才肌の偏倚的な芸術家と、普通そこいらの人生行路に歩みつかれて、生活の下積みになつてゐる凡庸人とのあひだに掘られた溝のやうなものであつた。K―に奇蹟が現はれて、センチメンタルな常識的人情感が、何らかの役目を演じてくれるか、T―が芸術的にか生活的にか、孰かの点で、或程度までK―に追随することができたならば、二人の交渉は今までとはまるで違つたものであるに違ひなかつた。
兄が天才なゆえに弟は、兄と肩を並べるという幻をみる。そして“私”とその作家は・・
ところで、K―と私自身とは、それとは全然違つた意味で、長いあひだ殆んど交渉が絶えてゐた。それは芸術の立場が違つてゐるせゐもあつたが、同じくO―先生の息のかかつた同門同志の啀み合ひでもあつた。同じ後輩として、O―先生との個人関係の親疎や、愛敬の度合ひなどが、O―先生の歿後、いつの間にか、遠心的に二人を遠ざからしめてしまつた。K―からいへば、芸術的にも生活的にもO―先生は絶対のものでなくてはならなかつたが、私自身はもつと自由な立場にゐたかつた。その気持が、時には無遠慮にK―の芸術にまで立入つて行つた。そしてK―の後半期の芸術に対する反感が又反射的にO―先生の芸術へかかつて行つた
Tの死に際して、兄Kの取った行動とは?そしてKと“私”の時間は一気に引き戻されるかにみえるのだが・・。
天才の兄を持ったがための苦悩する弟と同郷同門で断絶せざるをえなかった“私”。彼らは、今それらを乗り越えようとする。弟は、自らの死によって、“私”はその弟の死によって。
この三人の中心にいる兄Kこと
泉鏡花 の、今日は命日である。

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