お正月の済んでしまつた頃から、私等はもうお祓が幾月と幾日すれば来ると云ふことを、数へるのを忘れませんでした。のだそうだ。で、その「お祓」とはいつ行なわれる祭りかと言うと
大祓祭は摂津の住吉神社の神事の一つであることは、云ふまでもありませんが、その神輿の渡御が堺のお旅所へある八月一日の前日の、七月三十一日には、和泉の鳳村にある大鳥神社の神輿の渡御が、やはり堺のお旅所へありますから、誰もお祓と云ふことを、この二日にかけて云ふのです。住吉さんのお渡り、大鳥さんのお渡りと一日一日を分けては、かう云ふのです。それで七月三十日から、もうお祓の宵宮祭になるわけなのです。実に、半年にわたって待ちわびられていたらしい。
この北向きの室は、家じゅうで一番狭い間で、三畳敷である。何の手入もしないに、年々宿根(しゅくこん)が残っていて、秋海棠(しゅうかいどう)が敷居と平らに育った。その直ぐ向うは木槿(もくげ)の生垣(いけがき)で、垣の内側には疎(まば)らに高い棕櫚(しゅろ)が立っていた。
その花房の記憶に僅(わず)かに残っている事を二つ三つ書く。一体医者の為めには、軽い病人も重い病人も、贅沢薬(ぜいたくぐすり)を飲む人も、病気が死活問題になっている人も、均(ひと)しくこれ casus(カズス) である。Casus(カズス) として取り扱って、感動せずに、冷眼に視ている処に医者の強みがある。しかし花房はそういう境界には到らずにしまった。花房はまだ病人が人間に見えているうちに、病人を扱わないようになってしまった。そしてその記憶には唯 Curiosa(クリオザ) が残っている。作者が漫然と医者の術語を用いて、これに Casuistica(カズイスチカ) と題するのは、花房の冤枉(えんおう)とする所かも知れない。
七月二十八日の夕方であった。フレロン要塞の将校集会所で恐ろしい激論が始まった。激しい声をきいた士官たちが急いでそこに駆けつけてみると、激論をしている士官はガスコアン大尉とゼラール中尉とであった。
そして、中一日おいた次の日の夕方です。村の若者が一人、やはり猿爺(さるじい)さんの居どころを探しあぐんで、村から半里ばかりある丘のふもとを通っていますと、どこからか、キンショキショキ、キンショキショキ……という気持ちのいい音が聞こえてきました。
「おや」
若者はびっくりして立ち止まりました。するとやはり、キンショキショキ、キンショキショキ……と、今まで聞いたこともない不思議な音が響いてきます。若者はその音に聞きとれて、ぼんやりその方へ進んでゆきますと、まあどうでしょう。
「女の夢は男の夢よりも美くしかろ」と男が云えば「せめて夢にでも美くしき国へ行かねば」とこの世は汚れたりと云える顔つきである。「世の中が古くなって、よごれたか」と聞けば「よごれました」とおゝ、風流ですな、と言いたいところだが、今日、久しぶりに本屋に寄ったら、フギャーッとなりそうな本がベストセラーの棚に並んでいたのが思い出され、憂鬱になった。ランキングで見るとこんな感じらしい(http://www.tohan.jp/bestseller/new.html による)。星印つき上昇中。扇に軽く玉肌を吹く。「古き壺には古き酒があるはず、味いたまえ」と男も鵞鳥の翼を畳んで紫檀の柄をつけたる羽団扇で膝のあたりを払う。「古き世に酔えるものなら嬉しかろ」と女はどこまでもすねた体である。
正面の額の蔭に、白い蝶が一羽、夕顔が開くように、ほんのりと顕(あら)われると、ひらりと舞下(まいさが)り、小男の頭の上をすっと飛んだ。――この蝶が、境内を切って、ひらひらと、石段口の常夜燈にひたりと附くと、羽に点(とも)れたように灯影が映る時
1. 曳声(えいごえ)を揚げて……こっちは陽気だ。手頃な丸太棒(まるたんぼう)を差荷(さしにな)いに、漁夫(りょうし)の、半裸体の、がッしりした壮佼(わかもの)が二人、真中(まんなか)に一尾の大魚を釣るして来た。魚頭を鈎縄(かぎなわ)で、尾はほとんど地摺(じずれ)である。しかも、もりで撃った生々しい裂傷(さききず)の、肉のはぜて、真向(まっこう)、腮(あご)、鰭(ひれ)の下から、たらたらと流るる鮮血(なまち)が、雨路(あまみち)に滴って、草に赤い。
2・ 私は話の中のこの魚(うお)を写出すのに、出来ることなら小さな鯨と言いたかった。大鮪(おおまぐろ)か、鮫(さめ)、鱶(ふか)でないと、ちょっとその巨大(おおき)さと凄(すさま)じさが、真に迫らない気がする。
3・ 「ほ、ほ、大魚を降らし、賽に投げるか。おもしろかろ。忰(せがれ)、思いつきは至極じゃが、折から当お社もお人ずくなじゃ。あの魚は、かさも、重さも、破れた釣鐘ほどあって、のう、手頃には参らぬ。」
と云った。神に使うる翁の、この譬喩(たとえ)の言(ことば)を聞かれよ。筆者は、大石投魚を顕(あら)わすのに苦心した。が、こんな適切な形容は、凡慮には及ばなかった。
土用に入っての夏の食いものに、鰻と蜆とは江戸ッ児の真先に計えあげる一つで、つづいては泥鰌、浅蜊のたぐいである。
鰻は何よりも蒲焼を最とし、重箱、神田川、竹葉、丹波屋、大和田、伊豆屋、奴なぞ、それぞれの老舗を看板に江戸前を鼻にかけてはおるが、今でも真に旨いのを喰わせる店、山谷の重箱を第一に算うべく、火加減、蒸しのかけ具合、たれ醤油の塩梅(あんばい)など、ここのを口にしては他に足を向くる気にはなれない。
勿論、従来の江戸前といった鰻、今も大川尻から品川の海にかけて獲れはするが、紡績や、川蒸汽船の石炭殻を流しこむので、肉の味ゲッソリおちて、食通の口に適せず、妻沼、手賀沼あたりからのを随一とするに至っては、火加減、蒸し加減が何よりで、搗(かて)てたれ醤油の味いも元より大切だ。
彼のチリリと皮の縮れて、焼加減な大串中串を箸にした気持ち、早くも舌めが味いたがって、無遠慮に催促するもおかしい。
私は軽く頷いたが、途端、今までの喜び全部が、暗い淵の底に石でも抛ったようにドブンと音を立てて沈んでいった心地がした。S氏が世田ヶ谷のごみごみした露地内の、狭苦しい、蒸し暑い家で、口をパクパク二つ三つ喘がせて息を引き取った時、隣家の垣根を飛び越えてきた大きな虎猫がミャンミャンとドラ声で鳴いて近寄ると、未亡人が「それ猫が来た!」と縁側に出て手を上げて追っ払い、室に駆け戻ると、生前S氏が使っていた仕事机から、錆びた安っぽいナイフを出して、死人の枕もとに置いたことが、ふーッと頭に泛き出したのだ。豊島は「最も自然主義に近い表現法に依ってる作家でも、現代ではよほど自然主義とは離れたところを歩いている」として嘉村を挙げ、「じみな描写や、対象をじっと見つめて、自分自身をもつき離して眺めてる態度などは、自然主義に似寄っている」とするが、ここに引用した文章に続く、主人公の心の動きを映した部分を指して、(自然主義作家が自らに課す)「作者の心情の動きに対する拘束は殆んど引除かれている」と評している。
自然主義が行きづまって以来、文学は生活から遊離して、生活意欲を帯びることが甚だ稀薄になってきた。とともに、資本主義の行きづまりは、社会全般を一種の神経衰弱的焦燥に陥れ、階級闘争の尖鋭化と生活的停滞層の拡大とを招いて、或は文学を顧みる余裕なからしめ、或は文学を娯楽物化しようとした。その全体の結果として、文学は実生活からの逃避所となる傾向にあった。と述べ、生活感のある文学が戻ってくることを希望している。