六月三十日、S――村尋常高等小學校の職員室では、今しも壁の掛時計が平常《いつも》の如く極めて活氣のない懶《もの》うげな悲鳴をあげて、――恐らく此時計までが學校教師の單調なる生活に感化されたのであらう、――午後の第三時を報じた。
と始まる石川啄木の「
雲は天才である」。1906年、つまりちょうど100年前の今日を描いた作品です。100周年おめでとうございます。
前半は、若く情熱的な教師新田耕助が教育方針をめぐって校長やその取り巻きと対立する話。痛快です。職員室での一波乱がようやく収まったと思ったら、彼のもとを一風変わった男が尋ねてきます。後半は、その男から聞く新田の友人、天野朱雲の近況。天野(つまり「雲」)は「確かに天才です。豪い人ですよ」と男は語ります。
天野の言葉に
現時の社會で何物かよく破壞の斧に値せざらんやだ、全然破壞する外に、改良の餘地もない今の社會だ。建設の大業は後に來る天才に讓つて、我々は先づ根柢まで破壞の斧を下さなくては不可《いかん》。然しこの戰ひは決して容易な戰ひではない。容易でないから一倍元氣が要る。元氣を落すな。
とあります。2006年にあって、そのように語る人がいても、一向に不思議ではありませんね。世の中、100年の変化なんて大したことなかったのかもしれません。今の世を見ると、本当は壊されなくてはならないはずの、社会の歪んだ部分の人たちが「改革だ、改革だ」と言葉を乗っ取って、やりたい放題やっていますが、案外、100年前だってそんな感じだったのかもしれません。

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