両人がここに引き越したのは千八百三十四年の六月十日で、引越の途中に下女の持っていたカナリヤが籠の中で囀ったという事まで知れている。ロンドンに滞在していた夏目漱石によるビクトリア朝時代の著述家 Thomas Carlyle 邸訪問記。
カーライルは書物の上でこそ自分独りわかったような事をいうが、家をきめるには細君の助けに依らなくては駄目と覚悟をしたものと見えて、夫人の上京するまで手を束ねて待っていた。という評が微笑ましい。
「自分のこと 」 南部 修太郎
病弱で野外スポオツはまるで駄目だが、水泳だけは案外達者である。但し見る方では大なる蹴球、野球のフアン。
さて、いよ/\桂子の花で描いた絵の公開展である。それはQ――芸館の階上階下、全部の室々を当てゝ開展されたのである。
その主なるものを茲に紹介すれば、
階下==玄関衝立代りとして、漆塗り大船型の器に截り据ゑた松の大幹、その枝々に揺れる藤浪。マホガニイ、白真鍮、鼠色大理石の材料で成層圏の印象を与へる炉を作り、マントルピースの上には紅木爪が寂しく一枝。窓際=如輪木の胴に赤銅の箍を嵌めた酒筒から、大小二本の蔓の根が窓框を捲いて延び上り、緊密な濃緑色の葉立ちの陰に、練絹へルビーを包んだやうな小花を綴るびなんかつら。床の一隅、幽欝な鉛製の八つ橋の角々に、王朝時代の情熱を想はせる燕子花。
僕は今この温泉宿に滞在しています。避暑する気もちもないではありません。しかしまだそのほかにゆっくり読んだり書いたりしたい気もちもあることは確かです
僕は今僕の部屋にこの手紙を書いています。ここはもう初秋(しょしゅう)にはいっています。僕はけさ目を醒(さ)ました時、僕の部屋の障子(しょうじ)の上に小さいY山や松林の逆(さか)さまに映っているのを見つけました。それは勿論戸の節穴(ふしあな)からさして来る光のためだったのです。しかし僕は腹ばいになり、一本の巻煙草をふかしながら、この妙に澄み渡った、小さい初秋の風景にいつにない静かさを感じました。………
ではさようなら。東京ももう朝晩は大分(だいぶ)凌(しの)ぎよくなっているでしょう。どうかお子さんたちにもよろしく言って下さい。
(昭和二年六月七日)
六 麦秋
だいぶ評判の映画であったらしいが、自分にはそれほどおもしろくなかった。それは畢竟(ひっきょう)、この映画には自分の求めるような「詩」が乏しいせいであって、そういうものをはじめから意図しないらしい作者の罪ではないようである。自分の目にはいわば一つの共産労働部落といったようなものに関する「思考実験」の報告とでもいったようなものが全編の中に織り込まれているように思われる。それでそういう事に特に興味のある人たちにはその点がおもしろいのかもしれないが主として詩と俳諧(はいかい)とを求めるような観客にとっては、何かしらある問題を押し売りされるような気持ちがつきまとって困るようである。
二マイルも離れた川から水路を掘り通して旱魃地(かんばつち)に灌漑(かんがい)するという大奮闘の光景がこの映画のクライマックスになっているが、このへんの加速度的な編集ぶりはさすがにうまいと思われる。
ただわれわれ科学の畑のものが見ると、二マイルもの遠方から水路を導くのに一応の測量設計もしないでよくも匆急(そうきゅう)の素人仕事(しろうとしごと)で一ぺんにうまく成効したものだという気がした。また「麦秋」という訳名であるが、旱魃で水をほしがっているあの画面の植物は自分にはどうも黍(きび)か唐黍(とうきび)かとしか思われなかった。
主人公の「野性的好男子」もわれらのような旧時代のものにはどうもあまり好感の持てないタイプである。しかし、とにかくこうした映画で日常教育されている日本現代の青年男女の趣味好尚(こうしょう)は次第に変遷して行って結局われわれの想像できないような方向に推移するに相違ない。考えてみると映画製作者というものは恐ろしい「魔法の杖(つえ)」の持ち主である。
そうでしょうか。そうでしょうね。そうあってほしいと思います。
回想・半七捕物帳
捕物帳の成り立ち
初めて「半七捕物帳」を書こうと思い付いたのは、大正五年の四月頃とおぼえています。その頃わたしはコナン・ドイルのシャーロック・ホームズを飛びとびに読んでいたが、全部を通読したことが無いので、丸善へ行ったついでに、シャーロック・ホームズのアドヴェンチュアとメモヤーとレターンの三種を買って来て、一気に引きつづいて三冊を読み終えると、探偵物語に対する興味が油然(ゆうぜん)と湧(わ)き起って、自分もなにか探偵物語を書いてみようという気になったのです。勿論(もちろん)、その前にもヒュームなどの作も読んでいましたが、わたしを刺戟したのはやはりドイルの作です。
そこで、いざ書くという段になって考えたのは、今までに江戸時代の探偵物語というものが無い。大岡政談や板倉政談はむしろ裁判を主としたものであるから、新たに探偵を主としたものを書いてみたら面白かろうと思ったのです。もう一つには、現代の探偵物語を書くと、どうしても西洋の模倣に陥り易い虞(おそ)れがあるので、いっそ純江戸式に書いたならば一種の変った味のものが出来るかも知れないと思ったからでした。(中略)
その年の六月三日から、まず「お文(ふみ)の魂(たましい)」四十三枚をかき、それから「石燈籠」四十枚をかき、更に「勘平の死」四十一枚を書くと、八月から国民新聞の連載小説を引き受けなければならない事になりました。
今年の六月の初めにI病院を退院してから、僕はまだ文章らしいものといったら、「よみうり」に寄せた十枚の原稿以外にはなにも書いていないのだ。なにか書いて見ようという気持が時々起らないでもないが、どうも変なことを書いてしまいそうな不安が伴っていつでも中止してしまうのだ。それほど自分というものに対してひどく自信がなくなってしまっているのである。
まるまる生きてみたところでたいして長くもない人生なのだから、どうかして、平凡無事に無邪気にくらしたいものだと思う。が、今迄の経験によると中々そう簡単にはゆかない。こっちではそう思っていても向こうからやってくるのだから耐らない。戦争でも始まったらどんなことになるのか、自分だけすましているわけにはいかないだろう。
ひるがえって飢餓に瀕している農村の人々を見よ!――と正義人道に燃えたつ幾多の志士仁人が叫んでいる。叫んでいる人達も同じく飢餓に瀕している――まじめな勤労の人々が無数に飢えているのだ。