六月三十日、S――村尋常高等小學校の職員室では、今しも壁の掛時計が平常《いつも》の如く極めて活氣のない懶《もの》うげな悲鳴をあげて、――恐らく此時計までが學校教師の單調なる生活に感化されたのであらう、――午後の第三時を報じた。と始まる石川啄木の「雲は天才である」。1906年、つまりちょうど100年前の今日を描いた作品です。100周年おめでとうございます。
現時の社會で何物かよく破壞の斧に値せざらんやだ、全然破壞する外に、改良の餘地もない今の社會だ。建設の大業は後に來る天才に讓つて、我々は先づ根柢まで破壞の斧を下さなくては不可《いかん》。然しこの戰ひは決して容易な戰ひではない。容易でないから一倍元氣が要る。元氣を落すな。とあります。2006年にあって、そのように語る人がいても、一向に不思議ではありませんね。世の中、100年の変化なんて大したことなかったのかもしれません。今の世を見ると、本当は壊されなくてはならないはずの、社会の歪んだ部分の人たちが「改革だ、改革だ」と言葉を乗っ取って、やりたい放題やっていますが、案外、100年前だってそんな感じだったのかもしれません。
ペエテルはペピイの体に異状の無いのを見届けた上、手の甲に載せた腮をずらせて、半分右へ向く。丁度クリストフは手鼻をかんだ処で、そのとばしりが地の透くやうになつた上衣(うはぎ)に掛かつてゐるのを、丁寧にゴチツク形の指で弾いてゐる。
此男は胃に力が無くなつて、「時間」も消化することが出来にくいので、その一分一分を精一ぱい熟(よ)く咬み砕いてゐるかとも思はれる。
ペエテルは杖に力を入れて起ち上がつて、片手を十になる小娘の明るい色をした髪の上にそつと置く。小娘は此時極まつて、自分の髪の中から枯葉の引つ掛かつたやうな手を摘み出して、それにキスをする
併し貧院に戻り着くと、ペピイが先に部屋に這入つて、偶然の様にコツプに水を入れて窓の縁に置く。そして一番暗い隅に腰を掛けて、クリストフが拾つて来た花をそれに插すのを見てゐる。
実験としての文学と科学
たとえば勢力不滅の方則が設定されるまでに、この問題に関して行なわれた実験的研究の数はおびただしいものであろう。たとえば大砲の砲腔(ほうこう)をくり抜くときに熱を生ずることから熱と器械的のエネルギーとの関係が疑われてから以来、初めはフラスコの水を根気よく振っていると少し温(あたた)まるといったような実験から、進んで熱の器械的当量が数量的に設定されるまで、それからまた同じように電気も、光熱の輻射(ふくしゃ)も化合の熱も、電子や陽子やあらゆるものの勢力が同じ一つの単位で測られるようになるまでに行なわれて来た実験の種類と数とは実に莫大(ばくだい)なものである。
イギリスの大学の試験では牛(オックス)でさへ酒を呑(の)ませると目方が増すと云(い)ひます。又これは実に人間エネルギーの根元です。酒は圧縮せる液体のパンと云ふのは実に名言です。堀部安兵衛が高田の馬場で三十人の仇討(あだう)ちさへ出来たのも実に酒の為にエネルギーが沢山あったからです。みなさん、国家のため世界のため大に酒を呑んで下さい。
スタニスラウスは徐(しづ)かに手を振つた。人に邪魔をせられずに落ち着いてゐたいと思つたからである。けふかあすかは知らぬが、自分はもうこの椅子から立ち上がらずにしまふのが分かつてゐる。併し最後の詞は、なんと云ふ詞にしようか、それはまだ極めてゐない。
監獄は今が入り時という四月の二十一日午後一時、予は諸同人に送られて東京控訴院検事局に出頭した。といって始まる堺利彦さんの「獄中生活」。「楽天囚人」という本に収録されていた文章らしい。何で四月二十一日が旬なのかは分からないが、とにかく
ほどなく馬車は警視庁の門に入った。「お帰り!」「旦那のお帰り!」などと呼ぶ奴がある。「今に奥様が迎えに出るよ」などとサモ気楽げな奴もある。と、入っていくほうも迎え入れるほうも慣れたものである。勝手知ったる監獄だ。中では
甚だおちつかぬ一夜を明して二日目になれば、まず呼出されて教誨師の説諭をうけた。教誨師というのは本願寺の僧侶で「平民新聞というのはタシカ非戦論でしたかな、もちろん宗教家などの立場から見ても、主戦論などということはドダイあるべきはずはないのです。しかしまた、その時節というものがありますからな、そこにはまたいろいろな議論もありましょうが、ドウです時節ということも少しお考えなさっては」というのが予に対する教誨であった。というような、いいかげんなお坊さんの話を聞いたり、
隣室の鼾に和して蛙鳴くなんて歌を作ったりする。これなら私もやっていけるんじゃないか、と思わされてしまう。あ、それが言いたかったのか。たぶん違う。
正坐して自慢の放屁連発す
寂しさに看守からかう奴もあり
六月二十六日午前九時より堺生の出獄歓迎を兼ねて園遊会が開かれた。……場所は、角筈十二社の池畔桜林亭である。……幸いに曇天で、……来会者は男女合せて百五十余名の多きに達した。……安部磯雄氏発起人総代として開会の趣旨を述べ、その中に「本日の会合はもとより堺氏出獄の歓迎を兼ねてでありますが、実をいえば、牢にはいるということは社会主義者にとりては普通のことでありますから、もしわが党の士のなかに出獄者あるごとに歓迎会を開くこととすれば、今後何百回ここで歓迎会を開かなければならぬかも知れぬ。で、私は今日の会も堺氏の出獄を期して、われら同志友人がここに一日の園遊会を開いたという風に思い」たいと語った。……なんか、私たちの時代も刻々と彼の時代に似てきているような気がする。とりあえず、今どきなら、「逮捕されるというのは法政大学にあってはフツーのことですから、これからも何百回もこういうパーティーを開かなくちゃならないかもしれません」なんていう感じだ。私も他人事だと思って、こんなのんきな文章を書いているが、きっとそのうち一部の集団だけの話じゃなくなるんだよな、とは感づいている。で、それまで他人のフリをして済ますつもりですか、自分。意気地なし。
「あなた本当にわたくしを愛して入らつしやつて。」かう云つて娘は返事を待つてゐる。
「なんともかとも言ひやうのない程愛してゐます。」かう云つて少年は、何か言ひさうにしてゐる娘の唇にキスをした。
私の夢は現実とつながり、現実は夢とつながっているとはいうものの、その空気が、やはり全く違っている。夢の国で流した涙がこの現実につながり、やはり私は口惜(くや)しくて泣いているが、しかし、考えてみると、あの国で流した涙のほうが、私にはずっと本当の涙のような気がするのである。
彼は、ゴルゴタへひかれて行くクリストが、彼の家の戸口に立止って、暫く息を入れようとした時、無情にも罵詈を浴せかけた上で、散々打擲を加えさえした。その時負うたのが、「行けと云うなら、行かぬでもないが、その代り、その方はわしの帰るまで、待って居れよ」と云う呪である。彼はこの後、パウロが洗礼を受けたのと同じアナニアスの洗礼を受けて、ヨセフと云う名を貰った。が、一度負った呪は、世界滅却の日が来るまで、解かれない。現に彼が、千七百二十一年六月二十二日、ムウニッヒの市に現れた事は、ホオルマイエルのタッシェン・ブウフの中に書いてある。芥川龍之介「さまよえる猶太人」。伝説のさまよえるユダヤ人が、ザビエルが日本にキリストの教えをもたらしたころ、日本にも現われ、ザビエルと親しく会話を交わした、という話。
しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。
「先生への通信 」寺田 寅彦
ニュルンベルクへ参りました。中世のドイツを見るような気がしておもしろうございました。市庁(ラートハウス)の床下の囚獄を見た時は、若い娘さんがランプをさげて案内してくれました。罪人は藁(わら)も何もない板の寝床にねかされて、パンも水ももらえなかったと話しました。いっしょに行ったチロル帽の老人がいろいろ質問を出すけれども、娘の案内者は詳しい事は何も知らないので要領を得ませんでした。これから地下の廊下を十五分も行くと深い井戸があるが見に行きますかという。しかし老人の細君が不賛成を唱えてとうとう見ずに引き返しました。それから画伯デュラーの住居の跡も見ましたが、そこの入場券が富札(とみふだ)になっています。名高い古城の片すみには昔の刑具を陳列した塔があります。色の青い小さい女が説明して歩く。いっしょに見て歩いた学生ふうの男がこの案内者に「お前さんのように毎日朝から晩まで身の毛のよだつような話を繰り返していてそれでなんともありませんか」と意地の悪いことをきくと女はただ苦笑していました。
(明治四十三年十月、東京朝日新聞)
「案内者」 寺田 寅彦
ニュールンベルグの古城で、そこに収集された昔の物すごい刑具の類を見物した事がある。名高い「鉄の処女(アイゼルネユングフラウ)」の前で説明をしていた案内者はまだうら若い女であった。いったいに病身らしくて顔色も悪く、なんとなく陰気な容貌(ようぼう)をしていた。見物人中の学生ふうの男が「失礼ですが、貴嬢は毎日なんべんとなく、そんな恐ろしい事がらを口にしている、それで神経をいためるような事はありませんか」と聞くと、なんとも返事しないでただ音を立てて息を吸い込んで、暗い顔をして目を伏せた。私はずいぶん残酷な質問をするものだと思ってあまりいい気持ちはしなかった。おそらくこの女も毎日自分の繰り返している言葉の内容にはとうに無感覚になっていたのだろう。それがこの無遠慮な男の質問で始めて忘れていた内容の恐ろしさと、それを繰り返す自分の職業の不快さを思い出させられたのではあるまいか。