かつて、日本人は、ほぼだれでも、この人の名前を知っていたらしい。なぜかと言うと、小学校の教科書でこの人の話を習ったからだ。1920年代に使われていた「修身」の教科書を見てみよう。
と、このような事情で日露戦争で戦死(1904年)した広瀬武夫さんは、「軍神」と崇められたらしい。弾に当っても死ななかったから神、というのなら分かるが、ごく普通に死んで神になる仕組みが今一つ納得がいかない。まあ、それまでの人徳の積み重ねなのだろう。神様の称号が安売りされていたということもあるのかもしれない。当時は、この国の最高指導者が生きた神様だとみんな信じこんでいたそうだから。ずいぶん「原始的」な世の中だったものだ。
その広瀬さんが生まれたのが、1868年
5月27日だ。明治元年生まれか。彼が生きたのは、体制が大きく変わって、躍動感のある時代だったのだろうと思う。なんか、そこらへんの再現を狙ってるのか、「私たち自身の手で憲法を変え、時代を切り開く精神こそが新しい時代をつくっていく」などと官房長官が言っている(2006年5月26日の衆議院教育基本法特別委員会)。物事の因果関係の方向性を勘違いしているアホちゃうか。
で、この広瀬さんのある一面について、夏目漱石がものすごくキツいことを言っている。「
艇長の遺書と中佐の詩」という1910年の評論だ。
露骨に云へば中佐の詩は拙悪《せつあく》と云はんより寧《むし》ろ陳套《ちんたう》を極《きは》めたものである。吾々《われ/\》が十六七のとき文天祥《ぶんてんしやう》の正気《せいき》の歌などにかぶれて、ひそかに慷慨《かうがい》家列伝に編入してもらひたい希望で作つたものと同程度の出来栄《できばえ》である。文字の素養がなくとも誠実な感情を有《いう》してゐる以上は(又|如何《いか》に高等な翫賞《くわんしやう》家でも此《この》誠実な感情を離れて翫賞の出来ないのは無論であるが)誰でも中佐があんな詩を作らずに黙つて閉塞船で死んで呉《く》れたならと思ふだらう。
ダ、ダイジョーブでしたか、夏目さん。ウヨクからカミソリの刃とか送られたりしませんでしたか。彼もそういう事態を心配したのか、文章の一番最後に、いかにも、とってつけたように書いてある。
余は中佐の敢《あへ》てせる旅順閉塞の行為に一点虚偽の疑ひを挟《さしはさ》むを好まぬものである。だから好んで罪を中佐の詩に嫁《か》するのである。
この評論の中の漱石は「広瀬武夫が立派な軍人だったということは認めるが、神に祀りあげるのはいかがなものか」と言いたげである。一部に変な人がいるものだから、そういうことを言うのを、一瞬、躊躇ってしまうのは昔も今も同じなのかもしれない。でも、みんなが黙ってしまったら、昔と同じ誤った世の中になってしまう。そのことを知っているぶんだけ、今の私たちは強いのだ。

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