先日テレビで放送していたのだが、
奈良の大学の先生が、 蜘蛛の糸の強度実験をしたのだそうだ。
70キロの教授はOKだったが、120キロのテレビスタッフが乗ると切れてしまった。驚きとともにちょっと悲しそうな教授の顔が印象的だった。
さて、その実験の由来の本家本元は、もちろん、
「蜘蛛の糸」 芥川 竜之介
(鈴木大拙の著作だったか、直接話を聞いたのだったか、仏教説話の中から芥川は取材したらしい)
お釈迦様の思いつきで、地獄から助けてもらえそうなカンダタ。この男、大泥棒らしい。大泥棒はやはり上ることが上手いのか・・
陀多は両手を蜘蛛の糸にからみながら、ここへ来てから何年にも出した事のない声で、「しめた。しめた。」と笑いました。ところがふと気がつきますと、蜘蛛の糸の下の方には、数限(かずかぎり)もない罪人たちが、自分ののぼった後をつけて、まるで蟻(あり)の行列のように、やはり上へ上へ一心によじのぼって来るではございませんか。陀多はこれを見ると、驚いたのと恐しいのとで、しばらくはただ、莫迦(ばか)のように大きな口を開(あ)いたまま、眼ばかり動かして居りました。自分一人でさえ断(き)れそうな、この細い蜘蛛の糸が、どうしてあれだけの人数(にんず)の重みに堪える事が出来ましょう。もし万一途中で断(き)れたと致しましたら、折角ここへまでのぼって来たこの肝腎(かんじん)な自分までも、元の地獄へ逆落(さかおと)しに落ちてしまわなければなりません。そんな事があったら、大変でございます。が、そう云う中にも、罪人たちは何百となく何千となく、まっ暗な血の池の底から、うようよと這(は)い上って、細く光っている蜘蛛の糸を、一列になりながら、せっせとのぼって参ります。今の中にどうかしなければ、糸はまん中から二つに断れて、落ちてしまうのに違いありません。
そこで
陀多は大きな声を出して、「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己(おれ)のものだぞ。お前たちは一体誰に尋(き)いて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」と喚(わめ)きました。
というわけで、力学的にもっともなことを言ったつもりのカンダタだったが、後はご存知のコースへまっさかさま。ここでこのせりふを言わなかったら・・・
言っても言わなくても力学的に切れたのか、それともエゴイスティックな言葉にだけ反応するセンサーつきの糸なのか、
後者だとして彼が何も言わないで、上だけを見ていたとする。足元からあがってくる亡者どもが世にでたら、お釈迦様はどうするつもりだったのだろう。そもそも大勢の中に蜘蛛の糸を一本だけ垂らして、ほかの連中が黙っているだろうか。
どうもお釈迦様の考えは甘い!
お釈迦様は悲しそうな顔をして終わるから問題はないが、納得がいかないのはカンダタである。「いったい今のは何だったのか?」そして結果、だれもカンダタに「あれはエゴイズムにだけ反応するセンサーつきの糸だったのよ。あんたの心根がわるいのよ」と教えないから、やはり彼は、後から上がってきたやつらが悪い、だからせっかくの糸は、切れたのだと地獄で確信することになる。
さて、この男、大泥棒だった、つまり悪人だったから死んで地獄へ落ちたということだろう。ではこの男の死因は?そんなに年寄りでもなさそうだから、老衰とは考えられない。遺伝的病気なのか、それとも荒れた生活だろうから生活習慣病の果てなのか、それとも誰かに殺められたのか?
この話の全編を流れる”人間のエゴイズム”は読めばわかるが、書かれていないカンダタの死因が私は気になる。

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