タンポポのある風景。何を皆は描くのだろう。
最初は萩原朔太郎「
純情小曲集」から二作。
新前橋驛
野に新しき停車場は建てられたり
便所の扉(とびら)風にふかれ
ペンキの匂ひ草いきれの中に強しや。
烈烈たる日かな
われこの停車場に來りて口の渇きにたへず
いづこに氷を喰(は)まむとして賣る店を見ず
ばうばうたる麥の遠きに連なりながれたり。
いかなればわれの望めるものはあらざるか
憂愁の暦は酢え
心はげしき苦痛にたへずして旅に出でんとす。
ああこの古びたる鞄をさげてよろめけども
われは瘠犬のごとくして憫れむ人もあらじや。
いま日は構外の野景に高く
農夫らの鋤に蒲公英の莖は刈られ倒されたり。
われひとり寂しき歩廊(ほうむ)の上に立てば
ああはるかなる所よりして
かの海のごとく轟ろき 感情の軋(きし)りつつ來るを知れり。
二子山附近
われの悔恨は酢えたり
さびしく蒲公英(たんぽぽ)の莖を噛まんや。
ひとり畝道をあるき
つかれて野中の丘に坐すれば
なにごとの眺望かゆいて消えざるなし。
たちまち遠景を汽車のはしりて
われの心境は動擾せり。
疲れきっている作者の風景にタンポポ。それは理想の風景じゃないって?刈られることもよくある、刈られて例えばコーヒーにされることもある・・・いや、そういうことではなく?
では、これはどうだ。
何にも音のしないところへゆくと、これがまた恐ろしい。いつだつたか陽春の眞晝、郊外の廣い野原へ出た。蓮華や蒲公英が、たいへん綺麗に咲き擴がつてゐる。私は童心に歸つて、それを一本々々、右手で摘んでは左手に束ねてゆく。花束はだん/\大きくなつていつた。しまひに摘みくたびれて、野原の眞中に立ちどまつた。急に自分の身邊が氣になり出す。耳を澄まして聽くと、サア大變だ。人聲もしなければ、工場の汽笛の音も聞えない。さつきまで吹いてゐた風さへ治まつて、全く音といふものが聞えない。鼓膜があつてもなんにもならない。自分は死んでしまつたのではないか――と、さう思つた瞬間、名状すべからざる戰慄が全身に匍ひのぼつて來た。……後で考へると、あのときは、咳でもするとか、軍歌でも歌へばよかつたのにと思ふ。
海野十三「
恐怖について」
これは危険。摘むのに夢中になって、知らない土地まで行ってしまったようだ。野原ではないけれど、ぼーっとしながら砂丘を歩いていて、上のような状況に陥った事が筆者にはある。恐怖だった。自分の声だけ、ささやいていても大音量に聞こえたりして。
いや、これではないって?
大丈夫、他にもあちこちでタンポポが咲いている。次回、もう少し見てみますか。

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