「故郷」という言葉が持つ意味合いは人によって異なるだろう。豊島与志雄は、「
故郷」の中でこう述べている。
私は、自分の生れ故郷に対して、殆んど愛着の念を感じない。年老いて死に瀕しても、故郷に帰って死にたいとの念は、今から想像した所では、殆んど起りそうにもない。私が愛着する土地は、自分が生活してる現在の土地である。
日本の土地を離れて、他国に住むと仮定しても、もしその土地に私の生活が根を下しさえすれば、私はその土地に愛着して、日本に帰りたい心を起さないかも知れない。
私の安住の地は、自分の生活が根を下してる処に在る。生れ故郷にあるのではない。
豊島は頭で考えた結果をそのままに述べているだけかもしれない。だから、「故郷」の末尾では、
茲に一言断っておきたい。個人の生活というも、結局は個人の土地ということになり、民族の土地というも、結局は民族の生活である、という説も出て来よう。そしてそれは、理論的には正しい。然し直接の感情からは少し遠ざかる。私が云うのは直接の感情に即してである。
さて、斯く云う私には民族的意識が稀薄なのであろうか? ともあれ、これは私の一つの実感である。
と締めくくっている。ただ、この感覚、私には大変によくわかるのだ。それは、現在日本を離れて暮らしていること、故郷と呼ぶべき場所が昔の姿をとどめていないこと、私の生活が故郷にとどまることを許さないこと、などの故によるのだが、豊島の実感はよくわかる。また、豊島は「
旅人の言」でこう述べている。
はて知らぬ遠き旅に上った身は――
後ろをふり返り見ないのだ。
後ろの遠い森影に佇んで私を見送る父母の眼が、さめざめと泣いているだろう。私の姿が小さくなり、地平線の末に隠れても、彼等はまだ私を見送っているだろう。悲しみの夜が暮れ、悲しみの日が明けても、彼等の涙は涸れないだろう。そしてその涙が私の足を縛るのだ。縛られた足を引ずる時、私は途に迷うかも知れないのだ。……自らの足で歩くべく択んだ身には、途に迷うことが罪悪なのだ。
父母はいつまでも私の父母であれ。そしていつまでも私の肩の上にあれ。私が強くなればなるほど、彼等の心も安らかになるだろう。拒むことはやがて本当に受けんがためなのだ。神にとっては時間はないのだ。そして私にとっても時間はないだろう。然しかく云うのは今恐ろしいのだ。さらば私は、真に恐れを知る者の恐れを以て、暫くは黙って進むのだ。凡てを信じて真直に行くのだ。
宗教的な色合いを除けば、この「旅人の言」は、私の実感でもある。

0