ある売れない作家が、郷里広島に疎開をしていた.
1945年8月6日の朝、空が光る。建物が崩れ、人間は呻き、人間は放心し、人間は死ぬ。そして彼は、
「夏の花」を書いた。書いたことによって彼の中で生まれた自責。作品に描かれた人たちの苦渋・苦渋によって彼に印税が入るという公式。後遺症・失意あらゆる苦悩が、東京へ逃れた彼を追いかける。彼は知った。逃れる術はないのだと。しかし8月6日に亡くなった人たちの分、ほんの少しだけ生きてみたかった・・ 彼の名前は、原 民喜。
遺稿
「死について」より。
ーだが、死の嵐はひとり私の身の上に吹き募つてゐるのでもなささうだ。この嵐は戦前から戦後へかけて、まつしぐらに人間の存在を薙ぎ倒してゆく。嘗て私は暗黒と絶望の戦時下に、幼年時代の青空の美しさだけでも精魂こめて描きたいと願つたが、今日ではどうかすると自分の生涯とそれを育てたものが、全て瓦礫に等しいのではないかといふ虚無感に突落されることもある。悲惨と愚劣なものがあまりに強烈に執拗にのしかかつてくるからだ。もともと私のやうに貧しい才能と力で、作家生活を営もうとすることが無謀であつたのかもしれない。もし冷酷が私から生を拒み息の根を塞ぐなら塞ぐで、仕方のないことである。だが、私は生あるかぎりやはりこの一すぢにつながりたい。ー
ー「死」も陰惨きはまりない地獄絵としてではなく、できれば静かに調和のとれたものとして迎へたい。現在の悲惨に溺れ盲ひてしまふことなく、やはり眼ざしは水平線の彼方にふりむけたい。ー
「遺書」より
ー大久保房男氏宛
大久保君
あなたにはネクタイをあげます
あなたはたのしく生きて下さいー
ヒロシマそして三月の東京
もし原子爆弾というものがなかったら 作家原民喜は生まれなかったのか
もし戦争というものがなかったら 原子爆弾は生まれなかったのか
もし主義というものがなかったら 戦争は生まれなかったのか・・・・
延々と疑問は続く
飽きるくらい”もし”が並ぶ
その中にはない疑問
”もし”の範囲外の疑問
どうしたら原民喜はたのしく生きていくことができたのか
久しぶりに雪が積もった。
朝、東京も粉雪が舞ったらしい。
東京の日中は晴れるのだろう。
三月の東京は日向と日陰の温度差がある
だから人は ジャケットのポケットに手を突っ込み肩を丸める
五十五年前、原民喜もそうして中央線の電車を見つめたように
(by ten)

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