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「桜の森の満開の下」 坂口 安吾
これは大人の寓話である。なぜ私はこれを寓話だと思うか?たとえば。。
ー昔、鈴鹿峠にも旅人が桜の森の花の下を通らなければならないような道になっていました。花の咲かない頃はよろしいのですが、花の季節になると、旅人はみんな森の花の下で気が変になりました。ー
桜の花の下を通らなければならないような道になっていましたって、どんな道か?、桜が森になっているというが、どんな桜がどのようになっているのだろうか?枝ぶりは?と思っているとこの話は進まないのである。「桜の森」という大きな観念のお化けと考えてもいい。その下で人はどうなるというのか?と読み進めていかなければならない。
これを読んでいると、「昔あるところにつるときつねがいました・・」という一節が思い浮かぶ。どんなつるなのか、どんなきつねなのか?と考えていると先へは進まないだろう。つるときつねがどうするのか?が大切なのである。ゆえにこの話は、寓話をよむことと大差はない。寓話だからこそ、敬体文が活きてくるのだ。これを常体文にしたらどうなるだろう。
ー桜の森の満開の下の秘密は誰にも今も分りません。あるいは「孤独」というものであったかも知れません。なぜなら、男はもはや孤独を怖れる必要がなかったのです。彼自らが孤独自体でありました。ー
ー桜の森の満開の下の秘密は誰にも今も分らない。あるいは「孤独」というものであったかも知れない。なぜなら、男はもはや孤独を怖れる必要がなかった。彼自らが孤独自体だった。ー
常体文では魅力が半減する。敬体文の魅力を満杯に詰めたこの大人の寓話を解く鍵は何かと考えたとき、故澁澤龍彦のエッセイ「石川淳と坂口安吾 あるいは道化の宿命について」より。
「花田(花田清輝)は『スカラベ・サクレ』というエッセーのなかで、林達夫の『異常な好意と尽力』(著者の後記)によって吊版されたという中橋一夫の名著『道化の宿命』に拠りながら「荷風・淳・安吾の系列は、わたしに、シェークスピアの芝居に登場する道化の三つの型――辛辣な道化・悪賢い道化・愚鈍な道化を連想させる」と述べ、荷風(永井荷風)を辛辣な道化に、淳(石川淳)を悪賢い道化に、そして安吾を愚鈍な道化に、それぞれ当てはめているのである。(中略)安吾は火遊びの好きなコドモのように、マッチを惜しまず「永遠の秩序」を燃そうと躍起になっていた。その論理は支離減裂、とても「思想のたばこ」を燃しているとはいえず、たしかに愚鈍な道化と呼ばれるにふさわしかった。しかし安吾の魅力は、繰り返して言うならこのコドモ性にある」
(「太宰治・坂口安吾の世界」柏書房刊・文中の()は私が書きました)
愚鈍な道化の山賊が、女に手玉にとられる幼稚性。幼稚ゆえの幸福という幻想。そして自己犠牲という恍惚と最後はすべてを悟ってしまうという悲劇、それらが順序良く組み立てられている。安吾のしたたかな計算が見え隠れする。まるで組み立てゲームのようだ。どれか一本間違えてはずしたら、全部崩れてくるような・・大人なら回避しそうな危うさが安吾の魅力なのだろう。

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