「馬鹿!」
と叫びながら、再び追いつくと、私はもう息も絶え絶えの姿であったが、阿修羅(あしゅら)になって、左右の腕でところ構わず張りたおした。
女が転把(テンパ)の上げ方を知らないで、間誤間誤(まごまご)している隙(すき)を狙って、一足飛びに逃げのくと、あとから銃身を逆手に振上げた女が、阿修羅のように髪を逆立(さかだ)てて逐蒐(おいか)けて来る。その恐ろしさ……
阿修羅王(あしゅらおう)のごとく狂い逆上した左膳が、お藤の手をねじあげて身体中ところ嫌わず踏みつけるその形相(ぎょうそう)に!
夢の樣な幼少の時の追憶、喜びも悲みも罪のない事許り、それからそれと朧氣に續いて、今になつては、皆、仄(ほの)かな哀感の霞を隔てゝ麗(うらゝ)かな子供芝居でも見る樣に懷かしいのであるが、其中で、十五六年後の今日でも猶、鮮やかに私の目に殘つてゐる事が二つある。という段落で始まるこの文章。啄木が8歳の時の3月30日を起点として、かすかな記憶を辿って、二つの印象的なエピソードが紹介されている。一つは恋と連帯感。もう一つは社会正義である。
其年の三月三十日は、例年の如く證書授與式、近江屋の旦那樣を初め、村長樣もお醫者樣も、其他村の人達が五六人學校に來られた。私も、祕藏の袖の長い衣服(きもの)を着せられ、半幅の白木綿を兵子帶にして、皆と一緒に行つたが、黒い洋服を着た高島先生は、常よりも一層立派に見えた。教場も立派に飾られてゐて、正面には日の丸の旗が交叉してあつた。其前の白い覆布をかけた卓には、松の枝と竹を立てた、大きい花瓶が載せてあつた樣に憶(おぼ)えてゐる。勅語の捧讀やら「君が代」の合唱やらが濟んで、十何人かの卒業生が、交る交る呼出されて、皆嬉し相にして卒業證書を貰つて來る。其中の優等生は又、村長樣の前に呼ばれて御褒賞を貰つた。軈て、三年二年一年といふ順で、新たに進級した者の名が讀上げられたが、怎したものか私の名は其中に無かつた。「新太ア落第だ、落第だ。」と言つて周圍の子供等は皆私の顏を見た。私は其時甚(桶屋の)新太とは、檜澤新太郎のあだ名。石川啄木の本名である。(どんな)氣持がしたつたか、今になつては思出せない。
山林官は猜疑深いアイヌ人と小熊秀雄の長編叙事詩「飛ぶ橇」。
上手に話をすることを知つてゐた
それは『真実をもつて語る』といふ以外に
この異民族と語る方法が
ないことを彼はちやんと知つてゐた
今般、当村内にて、切支丹宗門の宗徒共、邪法を行ひ、人目を惑はし候儀に付き、私見聞致し候次第を、逐一公儀へ申上ぐ可き旨、御沙汰相成り候段屹度承知仕り候。篠という女性が医師のもとにやってきて、病気で死にかかっている9歳の娘、里の診察を依頼する。しかし医師は篠がキリスト教徒であることを理由に診察を拒み、その信仰を捨てることを要求する。篠は大きな煩悶の末、娘の命のために自らの信仰を犠牲にするが、娘の里は診療の甲斐なく絶命する。
ロメーンスの説に猫甚(いた)く子を愛するの余り、人がむやみにその子に触(さわ)るを見ると自分で自分の子を食ってしまうとあった。予本邦の猫についてその事実たることを目撃した。これに「母猫が生まれたばかりの仔猫の胞衣《えな》を嘗めとっているうちに抑制が利かなくなってしまうことがある」と説明するのは野暮というもの。
猫往昔(むかし)虎に黠智(かつち)と躍越法を教えたが特(ひと)り糞を埋むる秘訣のみは伝えず、これを怨(うら)んで虎今に猫を嫉むとカンボジアの俗信ずと。と述べられているように、飼い主に忠実な犬に比べ、狡くて陰険なイメージというものが猫にはあるのだが、
人と諸動物の心性の比較論はなかなか一朝にして言い尽すべきでないが、諸動物中にも特種の心性の発達に甚だしく逕庭がある、その例としてラカッサニュは犬が恩を記(おぼ)ゆる事かくまで発達しおるに人の見る前で交会して少しも羞じざると反対に、猫が恩を記ゆる事甚だ少なきに交会の態を人に見する事なきを挙げた。という記述に妙に勇気づけられるのは猫好きだけであろう。云うまでもないが、「公会」とは「交尾」のことである。
弥生(やよい)の末から、ちっとずつの遅速はあっても、花は一時(いっとき)に咲くので、その一ならびの塀の内に、桃、紅梅、椿(つばき)も桜も、あるいは満開に、あるいは初々しい花に、色香を装っている。石垣の草には、蕗(ふき)の薹(とう)も萌(も)えていよう。特に桃の花を真先(まっさき)に挙げたのは、むかしこの一廓は桃の組といった組屋敷だった、と聞くからである。その樹の名木も、まだそっちこちに残っていて麗(うららか)に咲いたのが……こう目に見えるようで、それがまたいかにも寂しい。
闇汁の催しに群議一決して、客も主も各物買ひに出づ。何をしていたら、「闇鍋をしよう」と群議一決してしまうのか。普通会話をしていても、「よし今日は闇鍋をするか」なんて話にはどうやってもならない。そのあたりがまったく書かれていないので、さっぱりわけがわからない。そんでもって、「俺たちはこんな闇鍋をやったのだ」ということを、さも楽しそうに句の雑誌であるはずの「ホトトギス」に掲載しておる。そしてさらには何十年の時を経て、「青空文庫」に掲載されているではないか。
青年I (一隅から)おい、昨日のジャパン・タイムス見たか。社説に出てるぞ。日本とロシアが満洲を分割するんだそうだ。それで、満洲へ来ることが決ってから、伊藤は桂首相と頻繁(ひんぱん)に往来しているし、日本皇帝にもたびたび拝謁している。そして、連日長時間にわたる閣議が開かれているというんだ。「英字新聞」で探してみたら、例えば堀辰雄の『麦藁帽子』に用例がある。
その高原へ夏ごとに集まってくる避暑客の大部分は、外国人か、上流社会の人達ばかりだった。ホテルのテラスにはいつも外国人たちが英字新聞を読んだり、チェスをしていた。落葉松(からまつ)の林の中を歩いていると、突然背後から馬の足音がしたりした。テニスコオトの附近は、毎日賑(にぎ)やかで、まるで戸外舞踏会が催されているようだった。そのすぐ裏の教会からはピアノの音が絶えず聞えて……この一節だけからでも予想がつくように、この小説、『なんとなく、クリスタル』の上を行くぐらい軟弱である。絶対出てくるに違いないと思って読み進めると、案の定、胸を病んだ青年とか出てくるし、救いようもない。読んでいて、ちょっと気恥ずかしくなった。