「御承知の通り、安政二年二月六日の晩に、藤岡藤十郎、野州無宿の富蔵、この二人が共謀して、江戸城本丸の御金蔵を破って、小判四千両をぬすみ出しました。この御金蔵破りの一件は、東京になってから芝居に仕組まれて、明治十八年の十一月、浜町(はまちょう)の千歳座(ちとせざ)で九蔵の藤十郎、菊五郎の富蔵という役割でしたが、その評判が大層いいので、わたくしも見物に行って、今更のように昔を思い出したことがありました。その安政二年はわたくしが三十三の年で、云わば男の働き盛りでしたから、この一件が耳にはいると、さあ大変だというので、すぐに活動を始めたんです。勿論、わたくしばかりじゃあない、江戸じゅうの御用聞きは総がかりです。八丁堀の旦那衆もわたくし共を呼びつけて、みんなも一生懸命に働けという命令です。その時代のことですから、御金蔵破りなどということは決して口外してはならぬ、一切秘密で探索しろというのですが、人の口に戸は立てられぬの譬えの通りで、誰の口からどう洩れるものか、その噂はもう世間にぱっと広まっていました」
岡本綺堂『
半七捕物帳 47 金の蝋燭』より。
この御金蔵破りの犯人捜しの過程で、半七老人は、ろうそくの形に鋳造された金塊を抱えて川に身投げをした女性の周りを捜査する。果たしてこの金の蝋燭は江戸城から盗み出された小判から作られたものなのか?
元号とは不便なもので安政2年と言われても全然ピンと来ないのですが、調べたら1855年のことでした。明治維新の十数年前ということですね。ちなみに、大政奉還が1867年、慶応から明治に名前を変えたのが1868年、廃藩置県が1871年、旧憲法の公布が1889年だったそうです。

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