1933年の
1月9日、伊豆大島の三原山で実践女学校の学生が投身自殺し、翌月その友人も後を追って火口に身を投げたことから、その年、にわかに三原山は自殺の“名所”となったらしい。
大島町のウェブサイトによれば、1933年だけで129人が三原山で命を絶っている(その数を944人としているサイトもある)。
この年、林芙美子が島を訪ねていて、その様子が『
大島行』に記されている。相次ぐ自殺のことも「大島と云へば、此頃はすつかり自殺者で有名になつてしまつたのですが、全く埒もない事です」「今日の新聞を見てゐると、三原山に飛びこんだ青年の事が出てゐますが、全く不思議な事だ」「驛で新聞を買つてみると、亦、大島での自殺の記事ですが、ひどく心を寒くします」などと描かれている。
火口に立って、彼女はこう綴る。「何だか」から「幸福なのですが」の部分が少し気にかかるけれど、死ぬつもりでここに来たわけではない彼女には、死の誘惑は訪れない。三原山の“魔力”が人を死に誘うのではないことを彼女は証言してくれている。
地の中から吐き出る煙を見て、何だか此まゝ心の變つて行くやうな氣持ちにでもなれば、今の私に大變幸福なのですが、飛び込みたい氣持ちもおこらず、かへつて、こんなところで死ねる人達を不思議に考へる位でした。樹も草も水もない、ロマンチックに云へば、只、雲だけが流れてゐる。ガラガラ土の間から、モクモクと煙が出てゐるきり、全く死にたいとは思ひませぬ。「おゝ厭な事だ」あとがへりすると、暗くなつた崖の下で、林檎を噛りながら話してゐる二人の青年がゐました。ひどく孤獨さうな樣子でしたが、私は早足で御神火茶屋にかけ上りラクダを頼みました。
人は、死ぬ場所の善し悪しなどさえも考えられないほど辛くなる時がある。そんな心配ができるならば、それはその人に(皮肉な形で)生きる力がまだ残っている証拠であるのだろう。
また、そんな事柄が頭からすっかり消えてしまった後でも、人は生き続けることができる。プラットフォームに立って、近づいてくる特急電車を見た時、私に柱を握りしめさせたのが何だったのか、私は知らない。分かるのは、自分が幾重にも層をなしていて、何かにつかまっていなければ足を前に踏み出していただろう自分のことをよく知り、それを制止した自分がいたことだけだ。
あなたの心がすり減っても、大丈夫。その下に、まだ、あなたは、いる。生きよう。

0