昨日本屋へ注文してあった本を取りに行った。帰り際、自動ドアの前に立とうとしたとき、馴染みの、女性店員がおもむろに言うには、「最近、面白い本ってありましたか?」
振り返った私は困ってしまった。なぜならば、『貴女の面白いと私の面白い』は違うし、なんせ私は、黄泉の国の作家が主なので、20歳代の彼女とかみ合わないように思い込んでいるからだ。どう答えようかと迷っていると、
「今の作家の話って、みんな同じようなものですよね?」と彼女は黒い大きな瞳を輝かせて言った。痩せ型のすらりとした美人で、器量よしと評判の店員さんである。その器量よしさんが続けて言うには、「私、泉鏡花の幻想的なところがいいと思うのです」
「そうですね」と答えた。答えながら以外な気もしたが、鏡花の作品にでてくる美女のイメージと彼女の容姿が重なった。
「今の作家は、抜き出た人がいないのですよ。みんな”平均的”でどの話もあまり変わらないのです」と彼女は言った。なるほど現代作家と同じくらいの年齢の人もそう考えるのか・・
「そうですね。あまり現代の作家は読まないのですが、独自の世界をもっている人って少ないように思いますね。いやみんな持っているのだけれど、独自が独自でなくなっているのですね。そして言葉を感覚で遣っているようなところがあり、『わからないあなたが悪いのよ』と言われているようで。それと『だからどうなの?』と読後に思う作品が多いのが困ってしまって。」と私が言うと、彼女は大きく頷いていた。
現代作家のどんな独自なのかを説明できるほど私は、彼らの作品を読んではいない。読んだ範囲でもどれも印象にのこらないのである。たとえば鎌倉の海岸をテレビでみたとき、漱石の「こころ」の一節でも思い浮かぶようなこと、スーパーで、みかんの箱の”紀州”の文字から、中上健次の”路地”を思い浮かぶようなことは、現代の作家の作品からはない。
目の前の自動ドアが何度開け閉めしただろうか、冷たい風が私を襲う。それでも話をしている私って・・・と思うと可笑しかった。
さて、今日の公開は、
<「作者の住む世界 」 豊島 与志雄
ーなぜ退屈だかを、もっとよく考えてみると、大抵の作家がみな同じような世界に住んでるからだと思う。
作者の住む世界というのは、作品に現われた材料が所在する、その外部の世界を指すのではない。材料はどんなものでもよい。その材料に対する、作者の感じ方見方腹の据え方など、そんなものをひっくるめた世界、即ち、作者の人としての知情意の内部世界を指すのである。
同じ材料を取扱っても、出来上った作品が作者によって異って、全く別種の感銘を読者に与えるのは、作者の住む世界が異るからである。ー
現代作家とひとくくりにすることはできない。私がどれだけ読んでいるというのかということにもなる。しかし豊島のこのことばは、創作に携わるものの原点であると私は思う。

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