異国の日本文学を学ぶ学生たちは、もちろん「三島由紀夫」の名前を知っている。作品を知っているというよりその特異な死で、興味があるようだ。
今から35年前の今日の昼過ぎ、三島由紀夫は自らの腹を掻っ捌いた。それはメディアにのって、瞬く間に全世界をかけめぐった。メディアの狭間であまり語られることのないことを、知人から聞いた。知人は。読んだのか誰かに聞いたのか・・私はわからないが、完璧を求める三島ならではの話である。
40代半ばの三島には子供が二人だったと思うがいた。市谷へ行く数日前、三島は、子供の学校の先生に会って、学校での生活はどんなものか、自分がいなくても子供が生きていけることを確かめたのだという。そこまで確かめなければ死ねない人で、逆に子供が死へのブレーキになることもありえない人だった。
当日の朝、三島は、「豊穣の海・天人五衰」を書き上げて、それを新潮社へ届けてその足で市谷へ向かったのだと読んだことがある。
彼の鍛えられた筋肉、装飾の家、彼流のパフォーマンスと自決の不思議、今生きている自分にとっての、三島由紀夫の作品にでてくる言葉についてを、詩にしたことがある。それを三島由紀夫と交友のあったある評論家氏の目にとまってお便りを戴いた。それには、「今更ながら三島さんの影響を考えさせられました」と。思想的なことに踏み込もうとは思わない。影響を受けたとすれば、三島の鋭い、過不足のない文章は、今でも私のバイブルの一章である。
さて、青空文庫に収まっている作家の中で三島を言い当てているのは、やはりこの人のこの文章だろう。三島由紀夫と宮本百合子。思想的には、相容れない二人である。百合子の洞察力の前には、三島が少年のように思えてくるのだが・・
「五〇年代の文学とそこにある問題」 宮本百合子
ー若い作家三島由紀夫の才能の豊かさ、するどさが一九四九年の概括の中にふれられていた。この能才な青年作家は、おそらくもうすでに、彼の才能のするどさ、みずぎわだったあざやかさというものは、いってみれば彼の才能の刃(は)ですっぱり切ることのできる種類のものしか切っていないからだということを知っているであろう。彼は今日からのちどのようにして、どこで彼の刃そのものをより強くきたえる材料を見出してくるだろうか。彼はどういうモメントで、あえて冴えた彼の刃をこぼす勇戦を示すであろうか。これらのすべてが研究されなければならない。ー
防衛庁。市谷台ツアー というのがあり、申し込めば中をみせてもらえるのだそうだ。

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