今日は八木重吉の命日である。繊細な神経をいたぶるように駆け抜けた30年の人生。
「秋の瞳」八木重吉
ー私は、友が無くては、耐へられぬのです。しかし、私には、ありません。この貧し い詩を、これを、読んでくださる方の胸へ捧げます。そして、私を、あなたの友にし てください。ー
この数行に出会って、何年経つだろうか・・八木重吉の詩集を手にして、ページを捲ったとき、とにかく驚いた。これだけストレートに書いた詩人はいるだろうか。ストレートであるだけに、読み手の心に直球で飛んでくる。
詩というものは、小説とちがい、読者に要求をするものが多い。高飛車といえばいいのか、「わからないあなたが悪いのよ」と言いたげに、あえて複雑な言葉の運びをしたがる。難解な現代詩などは、書いている本人より、先を詩が歩いているのではないだろうかと思う。
詩であれ、小説であれ、わかる人わからない人がいてはいけないのだと思う。(好き嫌いという好みは別である。)目の不自由な人には、物が見えるように、耳が不自由な人には、聞こえるように、私は書きたいと思っていた。そのためには、どういう書き方をしなければならないのか。それをいつも考えていた。しかし実際、活字となった拙作は、そんな思いとは程遠いものだったが。
さて、そういう面から考えると八木重吉は、満点にちかい詩人だろう。彼の詩は、難解さがない。かなしみを表現するために、詩人は言葉を尽くす。だから八木重吉のように、簡素な言葉で、明確に”かなしみ”という言葉を遣う詩人に、私などは、反対に感動を覚える。なにしろ私は、あせくせして表現を模索していたのだから。
素直な言葉であることが、人の琴線に触れる詩人だとは思わない。
技巧を凝らした言葉であることが、人の根底を揺るがす詩人だとは思わない。
何かがなければならないのだ。
それは、冷徹な目だと私は思う。冷徹な目とは、決して冷やかにものを見ることではない。人間の深い淵を底まで見通す目である。詩人に不可欠な目でもある。
朔太郎、中也それぞれ彼らは持っていた。そして八木重吉にもそれがあった。後の二人に較べると詩人として短い人生、その短さの中に溢れ落ちる彼の言葉を両手で掬ってみよう!

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