「自分だけの世界」 辻潤
ー自分の生きてゆく標準を他に求めないことである。人は各自自分の物尺によって生きよというのである。それ以外にはなんの道徳も標準もないのである。一々聖人や賢人の格言や、お経の文句を引き合に出して来る必要がなくなるのである。約束や習慣はその時々に最も便宜であると思われるものを撰べばよいのである。世の中にこれでなければならないなどという客観的標準は一つだってありはしないのである。人は相互に出来るだけ融通をきかせよである。 (一九二一年九月二十日)ー
自分の物尺を持つということは、貴方の物尺と私の物尺は違うのだ。どう違うのか、その違いを認めることができなければならない。私は、欧米の人たちと話す機会が多い方だと思うが、彼らは、幼い頃からそういったことの認識をしつけの一環として組み込まれているから、なんら難しいことではないらしい。
「私は、これこれこう思います。こういった部分があなたとは違います。あなたの言い分はこういうふうに理解できます」とはっきり明言する。
高尚な辻の理解とは全く別のところで、昨日私は、辻の、この一節を思い出していた。それを確認するために開いたこの文章で、最後まで読むと今日の日付になっていた。
なぜ私がスーパーのレジでこれを思い出したか?夕方のスーパーは、混んでいる。どのレジもそこそこ並んでいた。端のレジに褐色の、逞しい腕を露出したインド系だろうか、黒い目の彫りの深い顔立ちの男性が二人並んでいた。誰も彼らの後ろに並ぼうとしない。私は、そちらの方が早いと思うので、さっさと彼らの後ろについた。二人は、私にわからない言語で話していた。そのうちの一人が、「すいません」とはっきりした日本語で、手刀を切って、私の横をすり抜けて売り場の方へ戻った。彼らがレジを済ませてからは、そのレジに一気に人が並びだした。
自分たちとは”違う”もの、標準を外れたもの・・・。それらに私たちはいかに敏感であるか。逆をいえば、私たちはみんなと同じだということに安心し、標準ということへの鋭い嗅覚をもっているか・・
買い物袋を両手に提げ、前を歩く彼らの、厚く広い背中を見つめながら、ふと辻の「貴方の物尺と私の物尺」ということばを私は思い出していた。

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