本日公開は、
「学者アラムハラドの見た着物」宮澤賢治
ーこのおはなしは結局(けっきょく)学者(がくしゃ)のアラムハラドがある日自分の塾(じゅく)でまたある日山の雨の中でちらっと感(かん)じた不思議(ふしぎ)な着物(きもの)についてであります。ー
ー自分の室に帰る途中(とちゅう)ふとまた眼をつぶりました。さっきの美しい青い景色(けしき)がまたはっきりと見えました。そしてその中にはねのような軽(かる)い黄金いろの着物(きもの)を着た人が四人まっすぐに立っているのを見ました。ー
ーただ林の濶(ひろ)い木の葉(は)がぱちぱち鳴っている〔以下原稿数枚?なし〕ー
自分の塾でみたことは書いてあるが、山の雨の中のものは原稿がないのでわからない。原稿がないのが残念だ。さてこの話で気づいたことを書いてみる。
・この話の題名は、「学者アラムハラドの見た着物」−本文の冒頭文には”ちらっと感(かん)じた不思議な着物”ー一章では”見ました”
”見る”と”感じる”、賢治の「感じる」は特別なものがあるように思う。賢治の世界ー宇宙・賢治の宇宙を”感じる”と書かれた女性社会活動家のエッセイを随分前に読んだことがある、いつぞやも書いたが、私は賢治の童話は苦手だったから、そういうものかと思って読み過ごした。こうやって書き出してみると「感じる」という大きな概念のなかに「見る」は存在する。「感じる」という大きな概念を提示して、そこから「見る」というポイントへと読者を誘い込むだろうか。
・冒頭文には、”このお話は、不思議な着物についてであります”不思議な着物について語っている部分は?
どこに書いてあるの?といいたいところだが、失われた原稿の部分を読んでみないとなんともいえない。読めるだけで判断するには、森羅万象の中で善と悪を兼ね備えた人間が、悪を捨てる決心をしたとき、自己犠牲を知ったとき、”はねのような軽(かる)い黄金いろの着物(きもの)を着た人が四人まっすぐに立っている”のをみることができるのだ。それも、厳密にいえば、”黄金いろの着物をきた人”であり、布をさすものではないのだろう。
賢治が書くのであるから、それを捕らえるか?本当にその四人は存在するか、幻想と片付けるか、眼を閉じて、しばらくして開けたとき、周囲の明るさによっておこる生理現象だとするか・・さてあなたならどれを選ぶ?
そういった屁理屈より、もっと楽しいことを選んだ方がこの話は、面白いのだろう。学者と子供のテンポのよい会話を楽しむことが、賢治の本来の目的なのかもしれないのだから。

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