今月の詩人は、
大手拓次
一昨年の暮れだったか、19世紀のロシアの詩人、セルゲイ・エセーニン(1895−1925)とアメリカのダンサー、イザドラ・ダンカン(1877−1927)の男女ペアがあったのだと久しぶりに私に思い出させたのは、知人の発行する同人誌に二人の名前があったからだ。二人は数年で破局するのだが、そういえば、詩人+女優=破局という図式のペアが、確か日本にもあったと。中原中也・長谷川泰子もその中に入るが、大手拓二と山本安英(1906−1993)を思い出した。
この二人のことについては、
「十年一覚蒼穹夢」のゼファー生さんの記事に譲ることにする。
藍色の蟇
夏の夜の薔薇
手に笑とささやきとの吹雪する夏の夜(よる)、
黒髪のみだれ心地の眼がよろよろとして、
うつさうとしげる森の身ごもりのやうにたふれる。
あたらしいされかうべのうへに、
ほそぼそとむらがりかかるむらさきのばらの花びら、
夏の夜の銀色の淫縦(いんじゆう)をつらぬいて、
よろめきながれる薔薇の怪物。
みたまへ、
雪のやうにしろい腕こそは女王のばら、
まるく息づく胴(トルス)は黒い大輪のばら、
ふつくりとして指のたにまに媚をかくす足は欝金(うこん)のばら、
ゆきずりに秘密をふきだすやはらかい肩は真赤(まつか)なばら、
帯のしたにむつくりともりあがる腹はあをい臨終のばら、
こつそりとひそかに匂ふすべすべしたつぼみのばら、
ひびきをうちだすただれた老女のばら、
舌と舌とをつなぎあはせる絹のばらの花。
あたらしいふらふらするされかうべのうへに
むらむらとおそひかかるねずみいろの病気のばら、
香料の吐息をもらすばらの肉体よ、
芳香の淵にざわざわとおよぐばらの肉体よ、
いそげよ、いそげよ、
沈黙にいきづまる歓楽の祈祷にいそげよ。
夏の夜の薔薇は、詩人の言葉通り棲息している。何も書き足すことも、除くこともない。彼の言葉のバランスとリズム。大手拓次の詩を、気障だという人がいる。さもありなんである。単に気障なのでは、言葉の中で生きる山本安英さんの心を掴むことはできない。素直さとでも言おうか、言葉の技巧の奥にあるものが、山本安英さんの心を短い時間だろうが捉えたことに間違いはない。
随分前の話だが、私は、一度だけ山本安英さんを近くで見たことがある。劇後、女優さんを囲んで話をする機会があり、私は末席に座っていただけのことなのだが。彼女のことを、どう書いていいのだろうかと迷う。彼女からみたら、孫のような年齢の私だった。30分もあったかなかったかのその時間は、今から思っても実に不思議な時間だった。
誰もが振り返るような美人ではない、街ですれ違ってもわからないだろう。男優の影に入ったら、見えなくなるような小柄な人だったと思う。しかし美しいのである。大きいのである。客席の隅々まで通り、何よりきちんとした日本語の声が、普段着の会場ではか細い声だった。そして丸く、実に可愛い話し方をされた。話し方が「丸い」とは、相応しくない書き方かもしれないが、それしか思いつかないのだ。その丸い話し方で何を話されたか私には覚えが無い。ただ「顔が輝く」という言葉は、彼女のためにあるのだと思った覚えだけが今でも鮮明にある。その鮮明さと大手拓次の薔薇が私の中で寸分の狂いもなくぴたりと重なるのだが・・

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