「夜の浪」水野仙子
ー『土用の牛の日にね、これを摘んでて、風呂に入ると、リウマチなんぞにそりやあよくきくんでさ。ここらの奴どもあ、誰もこんな有り難いことを知りあがねえんさ、ほんに勿體ねえ、こんなにどつさりあるものをさ。』
媼はぶつぶつ呟くやうに言ひながら、貪るやうにぽきぽきとその有り難い藥草を折り溜めた。投げ入れられる草は、籠の中に氣のせいほどのしほれを見せて積み込まれた。−
どうやらこの作品は土用の牛の日に起こったことらしい。土用の牛の日の草取りをする媼への語りかけから、民子の横には男性がいるのだとわかる。それも子細ありげである・・
明日、二人は別れなければならない。辛い気持ちを浪が浚っては、押し返す・・・・
この作品を読み終えたとき、スクリーンの中で、「終」の文字が夜の波間から映し出されてくるようだ。
生活の中の、ある時間を輪切りにして、見せてくれるのが、水野仙子である。それに関しては私が何百と言葉を並べるより有島武郎の文章を読んだ方が早い。
「水野仙子氏の作品について」
ー作者の畏れなければならないのはその人の生活だといふことを今更らの如く感ずる。(中略)
仙子氏はその心底に本當の藝術家の持たねばならぬ誠實を持つてゐた。而してその誠實が年を追ふに從つて段々と光を現はして來てゐる。この作者はいゝ加減な所で凋落すべき人ではなかつたに違ひない。年を經れば經るほど本當の藝術を創り上ぐべき素質を十分に備へてゐたことが、その作品によつて窺はれる。十分の才能を徹視の支配の下におき、女性としては珍らしい程の徹視力を自分の性格と結びつけてゐたのはこの作者だつた。だからその藝術が成長するに從つて益根柢の方へと深まつて行つたのだ。この點に於て彼女の道は極めて安全だつた。而かもその道が僅かに踏まれたばかりで彼女は死んでしまつたのだ。ー
私は、水野仙子の作品が好きだ。そして水野仙子の前にも後にも、彼女ほどの「徹視力」を持って作品を書いた女性はいないのではないかと思う。その徹視力で、読み手をひきつけておいて、最後にパッと突き放す手法は、晩年になるほど冴え渡る。彼女がもっと生きていたら・・・と有島武郎共々思うのだが・・

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