今日は文月の「ふみの日」。今回は、ふみ=手紙 には気の毒な話である。
世の中に流通する手紙は須らく恋文であるからそのように扱え、と私は職場で教えられてきたが、自分の目からみるとどうしても恋文と判断できないものが二つある。一つは「不幸の手紙」、もう一つは「幸福の手紙」である。二つだけれども、読み手の行動を拘束する点では一つなのかもしれない。
「不幸の手紙/幸福の手紙」が日本固有なのか、海外から輸入されてきたのか、はたまた世界中で自然発生したのかは、筆者の調査不足で今の所わからない。今日たまたま借りた宮武外骨「奇態流行史」には、大正十一年の一月中旬頃に「幸運の為に」という葉書が全国に流行したことが記されていた。それ以前にも大黒天の像と添え書きを印刷したものが出回っていたこともあったらしい。
ところで、青空文庫内で「不幸の手紙」「幸福の手紙」を検索した所、以下の作品がヒットした。
宮本百合子「
幸運の手紙[#「幸運の手紙」に傍点]のよりどころ」
葉書や手紙から電子メールに舞台が移って尚「不幸の手紙/幸福の手紙」が出回る理由の一端がわかるような気がする。
幸運の手紙は、従って人々がともかく幸福らしいものをたっぷりもって暮している世情の中では、効力を余り発揮しない。幸福や幸運というものがいかにもぼんやり遠くにあって、今日の現実とは反対のものとして心に描かれているような社会の条件のなかでこそ、幸運の手紙はその循環を全うし得るのではなかろうか。
参考:
宮武外骨「奇態流行史」は、
『宮武外骨著作集 第四巻』(河出書房新社)に収録されている。

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