「難しく考えないで。夢うつつで見るのも、正しい見方とも言えるんじゃない」
しばらく前に、若き友人がこう言ったことがある。能楽堂がない地に住んでいるので、そういう贅沢な芸能を楽しんだ事がまだない。最も、コンサートでもオペラでも途中でぐっすり眠ってしまった自分には、能を楽しむ資格が半分はあるかもしれない。
それはさておき・・・
『あなたが橋掛りで慎しやかな白い拍節(ビーツ)を踏むと、
あなたの体は精細な五官以上の官能で震へると思ふ……
それは涙と笑の心置きない抱合から滲みでるもの、
祈祷で浄化された現実の一表情だ、
あなたは感覚の影の世界を歩く……暗いが澄み切つた、冷かで而かも懐しい。
「あなた」と呼び掛けるこの詩から、「能楽論」本文は始まる。作者自らが作った詩だろうか。演じる人への賛歌である。予想を裏切り、いささかバタくささを感じながら本文へ入ると、雰囲気が一変した。でも作者のまなざしは変わらない。恋をしている人のようだ。
この作品は「論」ではあるが、二つの謡曲の紹介を通じて、読み手を能への世界に誘う作品でもある。見た事がないものを想像する事、それは実はそれほど難しくはないのではないか、と思わされる。
想像は不思議な魔法使だ。私共はその杖に触れて、静かな青白い寂しい月が天に上つてゐると想像する……『松風』の一番はいよいよ始まる。
確かに、見える。
野口米次郎(1875-12-08生/
1947-07-13没)「
能楽論」
作者は、彫刻家イサム・ノグチの父としても知られている。

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