書くことに託す願いをつづった短い随筆が、芥川龍之介にある。
「後世」と名付けたこの作品で、筆者は、自らの命が絶えた後、作品と向き合ってくれる人の姿を思い浮かべて、こう語る。
時々私は廿年の後、或は五十年の後、或は更に百年の後、私の存在さへ知らない時代が来ると云ふ事を想像する。その時私の作品集は、堆(うづだか)い埃に埋もれて、神田あたりの古本屋の棚の隅に、空しく読者を待つてゐる事であらう。いや、事によつたらどこかの図書館に、たつた一冊残つた儘、無残な紙魚(しみ)の餌となつて、文字さへ読めないやうに破れ果てゝゐるかも知れない。しかし――
私はしかしと思ふ。
しかし誰かゞ偶然私の作品集を見つけ出して、その中の短い一篇を、或は其一篇の中の何行かを読むと云ふ事がないであらうか。更に虫の好い望みを云へば、その一篇なり何行かなりが、私の知らない未来の読者に、多少にもせよ美しい夢を見せるといふ事がないであらうか。
書くことの動機は、いくつもある。
そのいくつかが絡み合って、多くの作物は生み落とされる。
ただ、人の世を貫いて流れる文化の大河のひとしずくとなり、後世との出会いを待つといった大望となると、意識の表にはなかなかのせにくい。
芥川ほどの人にしてはじめて、それもごくごく控えめに語って、どうにか格好が付く。
だが、書く人の胸の奥の底にはしばしば、そんな奇跡に憧れる冷たい炎が、本人も意識することなく燃えている。
けれども私は猶想像する。落莫たる百代の後に当つて、私の作品集を手にすべき一人の読者のある事を。さうしてその読者の心の前へ、朧げなりとも浮び上る私の蜃気楼のある事を。
そんな胸底の願いを、すくい上げるものがあるとすれば、なんだろう。
出版。図書館。
芥川死して70年、そこにもう一つ、テキスト・アーカイヴィングという可能性の芽が生まれたことを、私は知っている。
「後世」は、青空文庫で読んだ。
そこに描かれた美しい幻は、青空文庫の願いでもある。

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