3月24日は、檸檬忌である。「檸檬」を書いた梶井基次郎の命日。今日から3日連続で、筆者の好みにより梶井基次郎を特集したいと思う。(うにさんファンのみなさま、ごめんなさい)
まず第一日目は、
梶井基次郎について。
1901年(明治34年)に大阪で生まれる。
1920年(大正9年)19歳、肋膜炎に罹る
1925年(大正14年)24歳、外村繁たちとともに「青空」を創刊。「青 空」を基点に次々と作品を発表していく。
1932年(昭和7年)31歳、肺結核のため永眠
31歳という年齢は、寿命として長いのか。短いのか。
ー梶井の年齢を追い越してしまった。もはや自殺という衣装は似合わない。ー
梶井の寿命をとうに過ぎたある方からのメールに書いてあった一行。その昔、梶井の寿命の範囲からでることを拒んでいた人の呟きであり、僅かな後悔である。
梶井は自らの命を自ら絶ったわけではない。病魔に冒された。もっと生きたかったのである。生きたいということ、生きることを肯定する力、それが梶井文学の中核。
日常の中で積み重ねていく時間、それをいとおしむこと。いとおしみながら死というゴールに向かって私たちは歩んでいる。そのゴールまでの過程を作家は、あらゆる手を使ってみせてくれる。見せ方があざやかであればあるほど、その作家にあこがれる。
梶井最後の公開作品、
「のんきな患者」より
ー吉田はこれまでこの統計からは単にそういうようなことを抽象して、それを自分の経験したそういうことにあてはめて考えていたのであるが、荒物屋の娘の死んだことを考え、また自分のこの何週間かの間うけた苦しみを考えるとき、漠然とまたこういうことを考えないではいられなかった。それはその統計のなかの九十何人という人間を考えてみれば、そのなかには女もあれば男もあり子供もあれば年寄(としより)もいるにちがいない。そして自分の不如意や病気の苦しみに力強く堪えてゆくことのできる人間もあれば、そのいずれにも堪えることのできない人間もずいぶん多いにちがいない。しかし病気というものは決して学校の行軍のように弱いそれに堪えることのできない人間をその行軍から除外してくれるものではなく、最後の死のゴールへ行くまではどんな豪傑でも弱虫でもみんな同列にならばして嫌応(いやおう)なしに引き摺(ず)ってゆく――ということであった。ー
実に諧謔的な題名だ。この患者の何が”のんき”なのか?主人公は、看病してくれる我が母のことを思う。その母から肺結核で亡くなった荒物屋の娘の話を聞く、劇の一場面のようだ。肝心なのはその劇の主人公は、肺結核で余命を考えざるを得ない立場だということ。
「のんきな患者」は、昭和7年1月の中央公論に発表された。これが、同人誌以外で発表されたただひとつの作品でもあった。この作品の評論を梶井は耳にすることなく、この世を去った。
梶井という人はどういう人だったのか?萩原朔太郎の言葉を抜粋してみよう。
ー梶井君のような男は、友人としてちょっとやりきれない男である。やりきれないというのは、こっちが神経的に疲れてしまうのである。ドストイエフスキイやボードレエルは、多くの友人から鼻つまみにされたという話だが、一体芸術の天才というやつは、東西古今を通じて人づきあいが悪く、やっかいな持て余しものであるー(「同時代人の回想」より)
朔太郎に芸術の天才と言わしめるものは梶井の何か?明日、梶井の文章について考えてみたい。
★年譜、及び萩原朔太郎の評論は、角川文庫「檸檬・城のある町にて」を参考にする。

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