某出版者の編集部は、SF作家の海野十三が弁理士の佐野昌一氏をインタビューするという企画を立てる。海野と佐野氏はかねてから顔が似ているという噂があった。海野はこの企画を引き受けてよいものかどうか迷う。人間、得をしている分にはなんら文句を言おうという気持ちにならないが、こと損に関しては、敏感である。海野もその例に漏れず、顔かたちのよく似ていることで得か損かを考えた場合、得より損の方が気になる。日頃の損を本人の前で吐き出そうと、海野は佐野昌一氏へのインタビューを引き受けるのである。その顛末を書いたものが本日公開の
「名士訪問記―佐野昌一訪問記―」
文句を言う為に勇んで佐野氏の事務所へでかけたものの、そこは大人、ましてインテリだから、正面きって怒鳴る、暴れるといった品性に欠ける素振りはない。
本文:「やあ佐野さん。毎日御出勤だそうで、なかなか勤勉ですねえ。」
「いやどうも、海野先生。なにしろこの出勤簿が私の出勤を待っている と思いますと、休みたくても休めないのです。開所以来、無欠勤です よ。」
実に穏やかである。不気味なくらい穏やかな切り出しである。こういう切り出し方をされたら相手は油断するに違いない。油断してしまうということを最もよく知っているのは海野自身なのだろう。以下私の想像のやり取り。
想像文:「海野先生、毎日精がでます。なかなか筆が走っているようですね」
「いやどうも、○○編集部さん。なにしろこの原稿用紙が私のペンを
待っていると思いますと、休みたくても休めないのです。作家にな
って、机の前に座らない日はありませんよ。」
「それは凄いことです。さすが海野先生、では先日たのんでおいた当
社の原稿を頂戴します」
「・・・・・」
海野十三と佐野氏の会話は、想像に過ぎないが、編集者と作家海野十三との間の会話と似ていないか?どこかで聞いたような台詞だと思いながらも、無難な会話から入る事ができ、好感触を得た海野は、「しめた!」と思い、肝心の得をして居るのか損をしているのかを探ることにする。この顔で自分は作家である。弁理士と似ていることで自分は損をすることがある。この顔でこの男は弁理士である。作家と似ていることでこの男は、どれだけ得をしているものなのか、損をしてているものなのか。
―「いやそれがですよ、まだ開業御披露も済んでいないのに千客万来で、休息のいとま遑もありません。」
「ほう。そんなに特許をたのまれますか。」
「これは内緒ですが、今のところもう出願が八つと異議申立が一つ来ています。この景気では、事務所をもっと拡げ、所員も殖やさねばなりません。」―
得をしている、それも儲かっているのだと海野は確信を得る。自分とよく似た顔だから儲かっているとは思わないが、よく似た顔の男が儲かっていると知って、悪い気はしない。
―「これは内緒ですが、今のところもう出願が八つと異議申立が一つ来ています。この景気では、事務所をもっと拡げ、所員も殖やさねばなりません。」
「すると本当に仕事を頼まれているのですね。失礼ながら意外ですねえ。すると特許料など、他よりやすくしているのですか。」
「ああ礼金のことですね。あれは弁理士会の規則があって、最低料金が定められています。私のところは他の特許事務所よりもかなり可也たかいのです。」
「えっ、やすいのではないのですか。」
「どういたしまして。なかなか高い料金をいただくことにしています。」―
どうやらかなり儲かっているらしい。それにしても内緒話までぺらぺら話してしまう、佐野というこの男、ちょっと軽薄過ぎないか・・・と海野は思うが、料金が高い理由が知りたくてしょうがない。聞いてびっくり、何のタネもなかった。あるのは職業人としての最高の宝、弁理士としての心配りとプライドである。
―弁理士という職業はサーヴィス第一なんですから、なるべく発明者に面倒をかけないようにしなければならぬと思います。それだけこっちが面倒をひきうけなければならぬから、料金も高いのです。(中略)とにかく電気特許のことなら、どちら様よりも自信をもってひきうけます。但し私としてはあまり仕事を持ちこまれない方がいい。―
ここでまた海野は考え込んでしまう。余り仕事を持ち込まれないほうがいいということの理由がわからない。商売繁盛の方がいいに決まっている。そこに作家海野は何かあることを直感する。直感するがその部分を知るということは、佐野という男の得たいのしれない部分を見たようで怖くなる。得たいのしれない部分、“この気の小さな男”の言うことが、“なにか深く掴んでいる真理があるのかもしれない”、つまり顔が似ていることとその真理との間に通じるものがあるとするとなんだかその深い真理を知る事が怖くなるのだ。海野自身に関ってくるように思うからだ。ゆえに海野は、あっさりと敗北宣言をする。
本日のタイトルがなぜ「分身術」なのかは図書カードを読んでもらうことにして、つくづく海野十三という作家の力量を思う。なせならば、芥川のドッペルゲンガ、ドストエフスキーの「二重生活者」(「分身」)と古今東西、分身の術を遣う作家、または遣う人間を描いた作家はいた。私の思い出す限り、普通にインタビューし、訪問記を書くという離れ業をしてのけた作家は海野十三以外浮んでこない・・・

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