ゴールデンウィークの前半、上高地の小梨平キャンプ場にテントを張って、残雪の穂高連峰を眺めながら、温泉、ビール、昼寝、焚き火と、思い切りぐうたらなアウトアを楽しんだ僕は、上高地を下り、沢渡の駐車場に止めてあったマイカーに乗って勇躍松本に入った。
僕にとっては、山よりも実はこちらがメインなのである。
刻々と都市化していく松本の街の中、最近の僕のお気に入りは、遠い昔から街の片隅で営業を続けるレトロな食堂巡りである。
店を改築することもなく、古くから庶民に愛され続けている食堂の多くは、店主も食堂と共に年を重ねているわけで、小さな店内に跡継ぎの姿を見かけることもなく、言ってみれば「絶滅危惧種食堂」みたいなものだ。そんな食堂に入り、いかにも食堂の味といったラーメンをすすっては、街全体が迷路のようだった今はなき古き松本の佇まいに思いを寄せる。
さて、そんな懐古主義にどっぷり浸かりながら、松本のとある食堂でラーメンをすすっているうちに、馴染みの飲み屋に向かう時間が来た。
今回は珍しく、飲み屋のマスターから、僕が松本に入る日を確認する電話が掛かってきたのだ。携帯電話から聞こえてくるマスターの声が、なんだか意味ありげなのが気になった。
女鳥羽川に沿って歩き、路地を曲がって店の前まで来ると、店前の駐車場に一台の車が入ってきた。運転席には、どこかで見覚えのある顔。車から出てきたのは、きのこ狩りや山菜狩りで、いつもお世話になっている、きのこの権威であるI先生ではないか。久しぶりのご対面なのだが、なにしろ二人そろって人見知りなものだから、ぎこちない挨拶しかできない。
店に入ると僕は座敷へ座り、I先生はカウンターによっこらせと腰を下ろす。ちょうど、僕の真正面にI先生の大きな背中が見える。生ビールで喉を潤しているうちに、本業である蕎麦屋の後始末を終えたマスターがやってきた。
「今日は潤平さんに、とっておきの物を食べさせてあげるよ」
手には、ビニール袋に入った、なにやら怪しげな一物。ううむ……。酒を飲まないはずのI先生の、まるで時間を計ったような登場のしかたといい、マスターのにやにや顔といい、なんだかとても不吉な予感がする……。
間もなく、マスターがキノコらしきものが乗った小鉢を持ってきた。
「今日は潤平さんに、これを食べてもらいたくてさ。もちろん普通のお客さんには出さないよ」
細かく刻まれた黒色のキノコからは、香ばしいバターの香りが漂う。
「なんだか、量が少ないけど、貴重なキノコなの?」
「う〜ん。貴重というか珍しいというか……。とにかく一口食べてみてよ」
『貴重』と『珍しい』の違いが良くわからないが、言われるままにキノコを箸でひとつまみして、口に入れる。やはりバターの味がする。ただしこれは、バター炒めにしたためについた味で、キノコ本来の味ではなさそうだ。キノコ自体は、正直言ってほとんど味がない。ただし歯ごたえはとてもいい。
「う〜ん。これは何というキノコ?」
マスターに聞いてみる。気がつくと目の前に見えるI先生の大きな背中が小刻みに笑っている。
「これはさあ……」
にやにや笑いながら、マスターがキノコの正体を明かした。
「シャグマアミガサダケっていう、猛毒キノコなんだよ。 致命的な猛毒菌としては、ドクツルタケと双璧だね。慎重に扱わないと致死率はほぼ90パーセント。いや〜〜、調理するのに苦労したよ」
ドクツルタケいうのは、一本食べれば、肝臓や腎臓をスポンジ状に破壊し、最悪の場合、食べた人が死に至るほどの毒を持ちながら、その美しい姿形から『死の天使』と呼ばれている超猛毒キノコである。
いや〜〜って、マスター……あなた……。
I先生がカウンターを離れてこっちにやってきた。「あまり美味しいもんじゃないねぇ」
「あまり美味しいものじゃないってことは、もしかして?」
「俺も初めて食べたんだよ。こんなキノコ食べる変人、日本に今まで100人もいないんじゃないの?」
どっっっひゃーーー。
なんて恐ろしい人たちなのだろう。そんな毒キノコを初めて食べるメンバーの中に僕を含めるとは。
シャグマアミガサダケの毒成分はギロミトンとモノメチルヒドラジン。このモノメチルヒドラジンは加水分解質で、なんとロケットの推進剤として使われているのだという。そんな恐ろしいもの食わすなよー。
なんでも、このギロミトンとモノメチルヒドラジンは揮発性の毒で、毒抜きするには、キノコを入れた大量の水を約20分ほど沸騰させ、湯から上げたら冷水でよく洗う。これを3回繰り返す出そうだが、やっかいなのは何しろ揮発性の毒だから、毒抜きしている最中に沸騰した湯気を吸ったら中毒を起こしてしまうというのだ。
中毒を起こした時の症状は、吐き気、嘔吐、下痢、痙攣、腹痛、肝障害、黄疸、高熱、めまい、血圧低下、肝臓肥大、脳浮腫、肝障害、意識障害、腸・腹膜・胸膜・腎臓・胃・十二指腸からの出血、そして多くの場合、2日から4日で死に至る。なんとまあ、苦痛のオンパレードではないか。
「調理するのに苦労した」ってのは、実は「毒抜きするのに苦労した」という意味だったのか!
「まあ、半日くらいして何も起きなけれ大丈夫だよ」マスターがのん気な顔で言う。
じゃあ、半日くらいして何か起きたらだめってことじゃん!
などと憤慨しながらも、まあ、キノコのプロでもあるマスターが、しっかり毒抜きしたのだから、そんなに心配することはないだろうと、いつの間にかポジティブな潤平が顔を出して、「うんうん。なかなか良い食感」などと目尻を下げながら、けきょく全部食べてしまった。それを見届けたI先生が、満足そうな顔をして店を出ていく。
このためだけに来たのかよ!
なんとも、恐ろしく、そして愉快な仲間である。
このシャグマアミガサダケ。驚いたことに、フィンランドでは、ごく普通に食品として店先に並んでいるのだそうだ。遠い昔から家庭料理として、毒抜きの方法が伝わっているのだろう。
その後、いつも通りのご馳走とうまい酒をいただき、最後は深夜の浅間温泉まで繰り出してマスターにラーメンをご馳走になり、シャグマアミガサダケのことなどすっかり忘れて、鼻歌気分で宿に戻った。
さて……肝心の中毒の方は…・・・?
翌朝、ちゃんと目が覚めたのだから、まあ大丈夫だったのだろう。
ところで、後日「きのこ図鑑」で見つけたシャグマアミガサダケの写真がこれである……。
うへぇぇぇぇぇ、気持ち悪い。
こんな、腐った脳みそみたいなキノコ食わすなよー!


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