僕のような金欠食いしん坊にとって、最も恐ろしい言葉は何だか、みなさんにわかるだろうか?
その言葉は…。
時価
この文字を店の品書きに見つけただけで、金欠食いしん坊の心意気は一気に萎んでしまう。
毎度おなじみ、居酒屋の激戦区、小田急相模原の片隅に、前々から気になっている店があった。
焼き鳥屋、大衆居酒屋が立ち並ぶ、駅南口の路地からさらに奥に入った場所にぽつんと建つ小さなさかな処の店である。確かここは、ずいぶん昔、お好み焼きの店だった時に一度だけ寄り、カウンターに座って一杯やっているうちに、厨房で主人の焼くお好み焼きの油が、思い切り連れの服に飛び散って閉口した思い出がある場所だ。
その後、そのお好み焼き屋は店を畳み、しばらく焼き鳥屋になっていたのだが、この6月から小奇麗な格子戸のさかな処に変わっていた。旨そうな魚を食べさせてくれそうな「感じ」がぷんぷんと漂うが、なにせ「さかな処 丸勝」と描かれた暖簾が風に揺れるだけで、店の中が見えるわけでもなく、ましてやメニューもその価格さえ表示されていない。
金欠食いしん坊にとって、こういう店が一番興味を惹かれ、そして入り辛いのだ。店の規模から、そしてその威張らない門構えから、いかにも旨そうな魚を出す雰囲気が漂っている。しかしそれと同時に、頭の中にどうしてもあの文字が浮かんでくるのだ。
それが時価だ。
ところが先日、久しぶりにこの店の前を通ったら、店の前に品書きが掲示されていた。
「本日のお勧め」と書かれた品書きには、カレイやアジ、ツブ貝といった旨そうな活き〆の刺身類や煮つけの名前が並んでおり、その価格の多くが、900円から1000円程度に設定されている。決して安い値段ではない。しかし、本物の旨い魚を出しているとすれば、この1000円未満という価格は、店主の精一杯の頑張りを感じる。
意を決して店に入ると、厨房と対峙したカウンターと4人掛けの座敷がふたつあり、カウンターでひとりだけ、常連らしい客が魚をつまみながら、焼酎を飲んでいた。
「いらっしゃい!」
それまでカウンターの客と話をしていた奥さんが、元気に言ってオシボリを持ってきた。
厨房の中ではご主人が、こちらに背を向けて坦々と料理を作っている。どうやら、ご夫婦で切り盛りしている店らしい。とりあえず生ビールを注文し、カウンターの上に張られた手書きの品書きを眺める。
とてもいい字だ。
以前、このページで、「旨い店を探すコツは?」と聞かれて、それは品書きの字の綺麗な店と答えた記憶がある。これは字の上手下手を言っているのではない。
「食は器で食わせる」という言葉がある。これは何も、不味い料理も良い器に盛れば美味しく見えるという意味ではないと思う。料理人が自分の料理を客に出す時に、少しでも客に喜んでもらいたいと考えれば、料理の腕を磨くのはもちろんのこと、盛り付けにも気を使い、そうなれば料理を盛る器にも自然と気を使うようになり、そして同じように品書きの文字も、その料理が旨そうに感じてもらえるように丁寧に書くようになると思うのだ。
「旨い店を探すには、綺麗な品書きの字の店を探せ」と言ったのは、そういう意味である。
さて、そんな意味で、この「さかな処 丸勝」の品書きの字は、食欲をそそるとてもいい字だった。時間を掛けて書いたなあ…と感じる字だ。
人を惹きつける不思議な笑顔を見せる奥さんに、とりあえず「カレイの煮付け」「上海カニの焼き物」「関アジ刺身」を注文する。奥さんから注文を受けたご主人が「はいよ」と返事して厨房の中で、こちらに背を向けて調理を開始する。
料理はなかなか出てこない。お通しのフキをかじりながら、2杯目の生ビールで喉を潤す。
せっかちな僕は、料理の出が遅れると、ついイライラしてしまうのだが、不思議なことにこの店では、時間が気にならない。厨房でせわしなく動くご主人の背中に、料理を作る料理人の楽しさが溢れていて、なんだかとても微笑ましい気持ちになってくる。
やがて大皿に盛り付けられて運ばれてきたカレイの煮付けは見事な照りを見せており、見た目にも旨そうだ。
箸をつけて口に運ぶ。旨い!煮汁の頃合も抜群だ。
カリカリに焼けた上海ガニが運ばれてくる。
焼けたカニ味噌を頬張りながら、「いい店を見つけたな」と心の中でつぶやく。
何時の間にか、カウンターの常連客は姿を消していた。
それにしても、この店の不思議な居心地の良さはなんだろう。普段、飲み屋に入っても、店のご主人に自分から話しかけることなどなく、何時も隅の席に座って、こそこそと運ばれてきた料理の写真を撮っている僕なのだが、この不思議な居心地の良さの中で、僕は珍しく自分から奥さんに声を掛けてしまった。
「なんだか、すごく美味しい魚ですね」
「おとうさん、美味しいって言って下さってるわよ」
奥さんが満面の笑みを浮かべて、厨房のご主人に声を掛ける。調理に忙しいご主人がこちらを振り向いて、やっぱり素敵な笑顔で軽く会釈する。
北海道出身で、もともと魚屋を営み、その後、日本料理の会社にサラリーマンとして長く勤めたご主人は、定年を前にして、長年の夢だった、本物の魚を食べさせる店を、この小田急相模原にオープンさせたという。魚を見る目は確かなのだ。
「道楽ですよ」とはにかみながら笑うご主人の横で、「本当は定年までは頑張って欲しかったんですけどねえ」と奥さんが真面目な顔で言う。
しかしその顔はやっぱり笑顔だ。
なるほど…。と僕は思う。
この店の居心地の良さは、このご夫婦の仲の良さがかもし出しているのなのだろう。夢を追うご主人と、現実の生活を気に掛けながらも、その楽しそうな背中を見て幸せを感じる奥さんの柔らかい信頼関係が、この店に不思議な心地い空気を漂わせているのだ。
思わず顔がほころんでしまうほど、抜群の食感の関アジを頬張りながら、ご夫婦と話をする僕が寄りかかる壁の上に、ひと言「笑顔」と書かれたご主人の丁寧な文字が、緩やかな暖房の風に揺れていた。

【さかな処 丸勝】〒228-0812 相模原市湘南4-1-13 TEL:(042)765-1570 定休水曜日
魚屋、日本料理屋と魚一筋に生きて来たご主人が、一念発起して開いた魚専門の料理屋。自ら目利きして、その目にかなった魚だけが、その日の品書きに並ぶ。魚はもちろんだが、煮汁、鍋物のスープなどにも工夫が凝らされており、魚の味をいっそう引き立てている。特に出汁から作り、3日間寝かせるというポン酢でいただくアン肝は絶品。本物の魚を食べたくなった時に訪れて、じっくり酒を呑みたい店だ。

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