武術の原点が相手を技、術によって倒すことにあるとしても、心、精神に誠無き術は、暴であり、武ではありえない。
相手を倒すことから発した日本武術は、その原点が生死を賭すことであったことからも次第にその精神性が追求され、精神的な求道の道としての色彩を強くして行きます。
武芸の主流であった剣においては、古くから「剣禅一致」ということが伝えられ、弓道においては、オイゲン・ヘリゲル氏の「日本の弓道」(岩波文庫)や「弓と禅」(福村出版)などの著作が、日本武術の精神世界の領域を実に深く伝えています。
どちらも突き詰めれば、己の心を無にすることでしょうか。

「動く禅である」とも言われる合気道に当てはめれば、それは技、もしくは目の前の一瞬、一瞬の動きに集中することにより雑念を払い、己の心を無にすることであり、さらにその身体運動によって、生命力を産みいだす本源としての「気」を自身の中心に集中させることにあると考えます。
開祖は、「合気道を修行修練せんとする者は、心・気・体の鍛錬をつうじて宇宙根源の気を自得する」と語られています。
武道の場合は、目の前の相手、技に集中することで、日常の一切を忘れての心に何も無い状態がより作り出しやすいのではないかと思います。
稽古の後が爽快なのは、そんな時間が過ごせるからなのでしょう。

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