合気道とは何かと考えたとき、武道や日本の文化といった認識が一般的なところではないかと思います。
武術、護身術といった認識も多いかと思いますし (護身という観点では後ほど改めて触れます。)、「道」という認識を持たれている人も居るでしょう。
自分は、合気道を「嗜み」だと思っています。
「嗜み」=1 好み。また、趣味や余技。 2 物事に対する心得。 特に、芸事・武道などに関する心得。 3 つつしみ。節度。 4 ふだんの心がけ。用意。 だとすれば、その全てに当てはまります。 さらには、人としての幅、奥行きを広げてくれるものとも言えると思います。
また、「嗜み」というものは、日常、あまり人様に向かってひけらかすものではなく、静かに自己の中で育成して行くものでもあるでしょう。
合気道を通して、日本伝統の作法、術、技としての身体の使い方を学び、道場という日常よりは一段神の場所に近い所に身を置き、直感を磨き、時には自身の内面と向かい合い、時に、時間の流れと瞬間の永遠を感じ、自然、宇宙の摂理と広がりを想い探求する。
もちろん、常にそのような澄み切った気持ちでいるわけではありませんが、不断の取り組みは、必ずや事あるときの心得として身を助けてくれると信じます。

合気道を始めたとき、この未知なるものを、より多く、より早く、より深く知りたいと貪欲に稽古しました。
良き師に恵まれ、さらに共に身体を貸し借りできる良き稽古仲間にも恵まれ、お互いが遠慮無く、いろいろなことを試すこともできました。 そしてそれは、合気道的な身体の使い方と技を覚えて行く喜びでもありました。
この身体が記憶として物事を覚えて行くことの喜びは、今も変わらず続いています。
道場の内外での動きの中に、気配り、気付きという動きがあります。
観察力という気付きの力は、他人の技を盗むことに繋がり、周囲に対する気配りや気遣いは、物事の先を読むことに繋がっています。
「気が利く」ということは、相手が何を望んでいるかを察知することでもあります。
たとえば、師匠が短刀を使おうという場面において、素早く短刀を差し出せるのは、その流れを察知しての行動であり、武道においてのそのような行動は、物事の先を読むという行為によるものであり、決して機嫌を取ったりしようとする意識からの行為ではありません。
先に触れた「護身」という認識においては、この状況を読むという意識が大いに機能します。
気付きと状況、気配を読むことで、多くの危機を回避できるでしょうし、もとより危険な状態に身を置くことを避けられるようになると考えます。 護身=武技で身を守ることだけではありません。
さらに、平常心とリラックスした身体を保つことも大切です、普段の稽古は、その状態を作れるようにするためのものでもあります。
いたずらに使うためのものではなく、自分はこれが出来るのだという自信を得るもの。 そして、その過程に喜びがあり、それを所有する喜びがあるもの、他者に誇るものではなく、自身が感じ、心を豊かにしてくれるもの、それゆえ自分は合気道を「嗜み」であり、「道」だと思っています。
合気会 マレーシアのイヴェントに参加のため、今週末の稽古は休みとなります。
稽古の無い週末に、自身の合気道に対する想い、認識を考えてみられてはいかでしょうか?
もちろん、どのような考え方が正解というものではなく、人それぞれの合気道に対する考え方、取り組みがあって良いものであり、それだけの間口と奥行きの深さが合気道にはあります。
マレーシアでの研修会で諸師範からご指導いただいたことを、稽古でお伝えできると思いますので、お楽しみに。

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