吉行エイスケ『
大阪万華鏡』より:
一九二六年、恐慌状態にあった銀塊市場にたいして、英領印度において組織された印度貨幣金融委員会が、一九二七年三月二十七日、三億五千万オンスの銀持高をもって、ルーピーの新貨幣制を決定した。その背後にあって英国当局者は銀売、金買いの機微な策略によって今日を期していた。
資本主義戦争の尖端を行くもの、これも、犯人は英国であった。
当時は銀行の取り付け騒ぎなどがあって、大変な状況だったらしいですが、今ひとつ、吉行が上の文章で何を言いたかったのか、定かではありません。調べてみると、1927年3月、英領インドで Indian Paper Currency Act というのが制定されて、1インドルピーが金 0.548925g と兌換できることが定められていますが、日付は24日であって27日ではありません。また、1927年3月27日は日曜日であって、そんな日に新貨幣制の決定などがなされるか、はなはだ疑問です。
なんか、適当にいい加減なことを書き散らしていたのではないでしょうか(『
バルザックの寝巻姿』の時にも書いたが、私は吉行エイスケという人物の書くものを根本的に信頼していなかったりします)。
当時使われていたルピー紙幣などが
ここ(インドの中央銀行のサイト)で見られます。けっこう楽しいです。本当は当時の大阪の写真とかを探したいところ…

0