久々に青空文庫にアクセスし、
「高橋悠治/音楽の反方法論序説」を読む。
悠治さんの『音の静寂 静寂の音』(平凡社)という本を企画し制作したのはもう8年近く前のことだが、その中に「音楽の反方法論序説」からも一部入れた。しかし、あらためて読んでみて、惹かれたのは本には入れなかった章だった。なんという失態!
「17さえずる世界」は、ブレヒトの引用で始まっている。
慈善病院の白い病室でわたしが
夜明けにめざめたとき
つぐみをきいて、やっと
わかった。しばらく前から
もはや死の恐怖はなかった。なくなるものは
何もないのだ、わたし自身が
いなくなるだけだ。いまや
その後のつぐみの歌も
たのしいものになった。
ここから引き継がれて始まる本文では、次のようなほとんど呪文とも思えるフレーズが繰り返される。
朝、めざめると、
鳥が鳴いている。
だが、どうしてそんなことが言えるのか。
朝、めざめると、
鳥が鳴いている。
そんなことはありえない。
朝、めざめると、
鳥が鳴いている。
もし、そう思わなかったとしても、
めざめたとき、鳥の声をきいたのなら、
そこに関係が成立していないとは言えない。
「音楽の反方法論序説」は、分類でいえば論述であり、エッセイであり、つまりは散文である。しかしだ、「17さえずる世界」を読んでみたまえ。散文のふりをしてはいても、これは詩だ。散文を読む姿勢で読むと、おそらくは100%近い読者が迷路の中に閉じ込められる。いっさいが理解不能になる。しかし、これは詩だと思って読み直せば、確実に見えてくるものがある。
いつ頃からだろう、この人は散文を韻文のようなスタイルで記述するようになった。『音の静寂 静寂の音』制作の最初の段階で経験したことを思い出す。おおよその文字数を計算して、これで大丈夫だろうと思い、組版のフォーマットに流し込んだ。版元からは、多くても300ページと言われていた。流し込んだ結果は……800ページを超えた。韻文のように適当な位置で改行を入れ、短いセンテンスの連なりに仕立てるとそうなる。
あるとき、本人に訊いてみた。「どうして、詩みたいな記述法をするんですか?」
答えは明解だった。「散文なんか誰も記憶しない。韻律をもたせれば、記憶に残る。そのことで、ものとしての本ではなく、人の記憶の中で記述が新しい生命を持つ」
高橋悠治は専業の物書きではない。だから、できたのかもしれない。しかし、こんなことを発想した人は、ほかにいただろうか。僕は誰も知らない。
高橋悠治/音楽の反方法論序説 えあ草紙

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