本日公開は、古川緑破のエッセイ三作、その中の
「甘話休題」
ロッパの軽妙な語り口につられ、ついつい最後まで読んだ。今も森永のキャラメルは健在だ。私個人の話として、この間、銀座のコロンバンのクッキーを食べた。神戸ユーハイムのバームクーヘンもいただいた。泉屋のクッキーもショッピングセンターにおいてある。地方に住んでいても、容易に都会のお菓子を手に入れられる時代である。
さて、私が気になるのは、風月堂の話。田舎者の私にしたら、風月堂といえば、ゴーフル。ゴーフルといえば、東京のお土産。母の職場の誰かが東京へ行くとこげ茶色の缶をお土産にもらってきた。私は嬉しくて飛びついた。缶の中には、母が食べないで持って帰った一袋がある。一袋に二枚入っている。さも私がもらってきたようにして、母と一枚ずつ分けた。私の好みは白いクリーム。チョコレートでもイチゴでもいけない。あの薄く広いウェハースをばりっと噛むと、周りが解けて口の中にバタークリームが広がる。それは、普段手に入るケーキともちがう、もちろん煎餅にはない、これぞ都会の味であった。
高校を卒業して、東京のへ行こうと決めたとき、単純な私は、これでゴーフルが山ほど食べられると思った。確かに、ゴーフルに近くなった。貧乏学生には痛かったが、一缶買ってきて、缶の蓋のセロテープをゆっくりと回した。一番合うであろう、紅茶を横において。満足するまでたべてやろうと。しかしばりばりと食べるにしたがって、いやになってきた。結局三、四枚までだなとがっかりした。おいしいものは、もう少し食べたいと思うところがいいのだ。しばらく缶の中のゴーフルは放置され、遊びにきた友人が持って帰った。
社会人になって、銀座風月堂の喫茶でケーキを食べた。ゴーフルではなく、自腹でケーキを食べることは、大いに背伸びした気になったものだ。
今でもデパートの地下、銘菓売り場を通ると風月堂のゴーフルのこげ茶色の缶に目が止まる。記憶は正直なもので、嬉しかった味の後にげんなりした味が口の中に広がる。それは「奇妙な感じ」としか言いようがないのであるが、その奇妙さもまた一つの味であろう。
甘話休題 えあ草紙

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