暖かい日差しに背中を押されて、私たちは、坂を上がった。中ほどまで行ったところで、土蔵の後ろに立て札が見えた。一葉が通った「
伊勢屋質店」
「ここですか?」とモハメッド君は、尋ねた。
「違います。違いますが、一葉がよく通った質屋なんです」
「SHUCHU・・」
「質屋」ってアラブにあるのかどうかわからない、では、英語でなんというのだろう。知らない。面倒になった私は、「次へいきましょう」と誤魔化した。(後で、彼がもっているIphoneで翻訳機能があることを知った。それになぜ気づかなかったか)
「質屋」という存在を知っている私は、一葉の、大切な着物を手放さなければならない心中を想像できるが、異国の裕福な育ちの青年は分かるはずもない。坂を上がりながら、
「彼女は、貧しかったので、あの店で、自分の着物をお金に換えていたんです。モハメッド君は、想像もできないでしょう」と言うと
「はい」と彼は素直に答えた。土蔵の、それも白い壁しかみていない彼には、そもそも「質屋」なるものより「店」がどうのといわれてもぴんと来なかったはずだ。文学は文化の上になりたっていると改めて私は思った。
「さっきの女の人が言ったのは、この階段?」とモハメッド君は階段を指差した。
「そうね」と頼りない返事の私に、
「訊いてみましょう?」とモハメッド君の得意が始まった。ということで、また私が、車を止めて仕事をしている作業服の男性に尋ねた。男性は、モハメッド君と私の顔を見比べてから、困った顔をして、
「僕は、ここのものではないのです」と言って、荷物を持って建物の中へ消えた。
「そうですか、すいません」と私は、彼の背中に言うと、「降りてみますか?」と体の向きを変えた。
「あ、ちょっと待って。今の人が中の人に訊いてくれています」
なんと耳のよいことか。日本人の私が気づかないことを彼は気づいていた。彼が言ってくれなかったら、私は降りていた。
モハメッド君の言うとおり、作業服の男性が出てきて、
「この階段を下りたらあるらしいのですが、降りてからまた訊いてみてください」と教えてくれた。
お礼を言うと私たちは、階段を下り、小路に出た。どっちへいけばいいのだろう、右の方へ行ってみたが、どうも違う。迷っている私に、モハメッド君は、
「ここで、尋ねてみましょう。今度は僕が訊きます」と理髪店を指差した。
赤と青のリボンがぐるぐる回る角の理髪店、幼いころどこにでもあった風景だと私の感傷を知るはずもないモハメッド君は重いガラス戸を開けた。二つしかない鏡に肌の色も顔立ちも全く異なる二つが映る。主人と思われる白髪交じりの男性が、一人ソファに座ってきょとんとして私たちを見た。
「すいません・・」と彼は言葉に詰まったので、後を私が引き取った
「樋口一葉の家にいきたいのですが」
「ああ・・次の電信柱を右にはいったとこ」と指を向けた。私たちは、礼を言って、ドアを閉めた。
「やっと着けるかな?」と私が言うと、モハメッド君は、
「そうですね。こんどは大丈夫です」と私に言うでもなく自分にいうでもない、小さな声で答えてくれた。
私たちは次の電信柱を曲がった。そこは、
私がみたかった風景。 (つづく)

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