力抜山兮気蓋世 力は山を抜き 気は世を蓋(おお)いしに
時不利兮騅不逝 時に利あらずして 騅(すい)は逝かず
騅不逝兮可奈何 騅の逝かざるは 奈何(いかが)すべき
虞兮虞兮奈若何 虞よ虞よ 若(なんじ)を奈何(いかん)せん
項羽と劉邦の争いで、項羽が四面楚歌に陥り、愛妾の虞美人と別れなければならなくなる時、楚の地方の歌を詠んだ、その歌詞である。地名にちなんで、垓下の歌と言われる。司馬遷『史記』巻七、項羽本紀に見える。
吉川幸次郎文学博士、これを論じた文章がある。『吉川幸次郎全集』第六巻「項羽の垓下歌について」。それまでの中国の詩は、天に対する強い信頼を前提に詠まれていたけれど、項羽のこの歌に、天の恣意による我が身の不安定を嘆く感情が初めて明確に見えるとのことだ。
吉川博士の文には、附言として、この歌に別のテキストがあることを指摘する。それは、日本に伝わったもので、『史記抄』と言われる書物が指摘している。日本の中世では、五山の僧が漢籍をしっかり読んでいたけれど、その一人に桃源瑞仙(一四三〇〜八九)という人がいる。その講義が記録されて残されたものが、『史記抄』である。そこに次のような記載がある。
力抜山兮気蓋世時不利兮 古本ニハ此ニ威勢廃威勢廃兮ト云七字カアルソ
仮名には清濁の区別がなく記載されているので、読みにくいが、「古本には此(ここ)に『威勢廃威勢廃兮』と云(いう)七字があるぞ」ということになるであろう。それに従えば、全四句でなく、次のような全五句の歌詞になる。
力抜山兮気蓋世
時不利兮威勢廃
威勢廃兮騅不逝
騅不逝兮可奈何
虞兮虞兮奈若何
「威勢廃」を、吉川博士は「威勢廃(おとろ)う」と読まれている。博士に依れば、このテキストは偽物でなくて、非常に信憑性があり、日本に伝わったテキストに実在したのだろうとのことだ。
ところで、私は偶然、このテキストを保存しているものをもう一つ見つけた。『平家物語』巻十、千手の前の段である。
昔もろこしに、漢高祖と楚項羽と位をあらそひて、合戦する事七十二度、たゝかいごとに項羽かちにけり。されどもつゐには項羽たゝかいまけてほろびける時、すいといふ馬の、一日に千里をとぶに乗て、虞氏といふ后とともににげさらんとしけるに、馬いかゞおもひけん、足をとゝのへてはたらかず。項羽涙をながいて、「わが威勢すでにすたれたり。いまはのがるべきかたなし。敵のおそふは事のかずならず、この后に別なん事のかなしさよ」とて、夜もすがらなげきかなしみ給ひけり。燈くらうなりければ、こころぼそうて虞氏涙をながす。夜ふくるまゝに軍兵四面に時をつくる。
項羽の言葉として「威勢すでにすたれたり」とあるのは、史記の別系統のテキストに見える垓下の歌の「威勢廃」を引用したものであろう。とすれば、項羽の言葉として、由緒正しいものを選んで、平家物語の作者は本文に組み込んでいることがわかった。

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